台灣中學歷史教育爭議札記 ──寫在中日甲午戰爭一百二十週年之際(日譯版)
邱士杰著、徐勝翻訳・訳注・解説,〈台湾中等学校歴史教育論争に関する考察:日清戦争120 周年にあたって〉,《コリア研究》6(2015年3月),頁69–88。按此下載刊行時的紙本PDF。本文原宣讀於2014年9月25日韓国独立紀念館「東学農民運動120年・日清戦争120年記念国際学術会議:1894 5년의 역사상(歷史像)과 동아시아의 역사교육[1894~5年の歴史像と東アジアの歴史教育]」。
目次
訳出にあたって――台湾歴史教科書論争の理解/徐勝
一、台湾地区歴史教科書の変遷
二、歴史教育をめぐる論争の背後にある思想問題
(1)「官/民」二元対立
(2)同心円史観の理論と実際―日清戦争の叙述を例として
三、高等学校歴史科教学問題
四、結論
【訳出にあたって―台湾歴史教科書論争の理解―】
徐勝
韓国の独立紀念館で開催された東学農民運動120年・日清戦争120年記念国際学術会議「1894~5年の歴史像と東アジアの歴史教育」に提出された、邱士杰の「台湾歴史教科書論争に関する考察-中日甲午戦争120周年にあたって」は、日本であまり紹介されたことがない、台湾における歴史教科書論争を整理した論文である。
本論文は最初、1999年以来の歴史教科書論争全般を論じたものであったが、シンポジウムのテーマと合わせて、日清戦争に焦点を合わせて書き直され、その際に中華人民共和国の教科書の記述についての考察も加えられた。
台湾では蒋介石独裁治下において、1950年以降37年間の戒厳期間中、教科書は国定で、歴史教育においては、国民党の「党国(国民党の国家)史観」が押し付けられてきた。中国全体の面積の0.3%にしかならない台湾が中国全体の代表権を持つというフィクションが崩壊して、中華民国は国連での代表権を失い、孤立し、台湾島に押し込められ、台湾化を推進するしかなかった。つまり、1972年以前には、いつか中国大陸に捲土重来することに備えて、1949年に国民党政府が台湾に逃避する以前の巨大な中華民国の国家機構をそのまま台湾に移して、無いものをあるかのように振る舞う虚構の王国を作り出し、維持してきた。歴史教育においては、中国史を教えたので、実際に依拠する台湾の歴史はほぼ無視された。
1972年、ニクソンの訪中を契機にアメリカの対中政策は大きく転換し、台湾は国連における中国代表権を失い、外交的に孤立無援の窮地に立たされて初めて、「この地」と「この人たち(台湾人口の80%を占める本省人)」に拠って立つ台湾として建て直すしかなくなった。これが「新中原」政策であり、「台湾化」政策であるが、内からは蒋介石・国民党独裁(党国体制)に対する全面的挑戦が始まった。すなわち国民党、中国大陸の虚構を取り除き、台湾の主体性を立ち上げる運動であり、そこで台湾を中国大陸から切断する作業が進められた。中国、中国大陸、中国人、中国国民党・共産党、中国史など全てを他者化し、台湾を掬い上げようとしたのである。
そこで問題になるのは、中国史との切断を図る中で、中国と一体化した台湾自体の歴史とも切断する反歴史的観点が生まれ、反中国を強調せんがために日本植民地支配時代をも台湾アイデンティティの構成部分として取り込む、「行き過ぎたアイデンティティ・ポリティクス」が作動したことである。その結果、期せずして帝国主義の植民地支配を肯定したり、覇権主義的日米国際ヘゲモニーに信頼したりする反共・歴史修正主義との同調・共鳴が現れ、政治的には台湾独立を主張する民進党の誕生・執権となったのである。
本論で邱士杰は、台湾の歴史教科書論争が上記の台湾アイデンティティ・ポリティクスの一環として、歴史叙述を近く(故郷=台湾)から初めて遠く(中国史、アジア史、世界史)へと順次及ぶ「同心円史観」を武器として展開してきたこと、ならびにそれを批判する国民党・統一派もその立場を批判しつつも越えられない現状を分析・批判し、「互恵的比較法」によって台湾海峡両岸の歴史を統合する方向を提示している。そのためには、台湾の歴史修正主義を、日本をはじめとする東アジアでの歴史修正主義の流れの中で把握し、東アジアの歴史認識運動との連帯を求める。
邱士杰は台北で1982年に生まれ、台湾大学歴史学系卒業し、現在、同大学院博士候補生であるが、修士論文を基に『一九二四年以前の台湾社会主義運動の萌芽』(台北:海峡学术出版社,2009)をすでに出版し、現在、台湾の各雑誌で左翼の論客として活躍中である。台湾社会科学研究会会長、夏潮基金会研究室長も兼ねる。

一.台湾地区歴史教科書の変遷[1]
1990年代中期は、台湾教科書改革の決定的転換点と言える。1994年当時、総統であった李登輝は日本の作家、司馬遼太郞との対談で初めて「台湾人の悲哀」を吐露し、自分は『22歳以前には日本人だった』という親日的言辞を弄して大きな物議をかもした。李登輝の発言は台湾の歴史認識論争を触発した。同年、台湾教育部は「国民中学課程基準」を修正通過させ、国民中学(中学に該当)学生たちは、必ず社会、歴史、地理の3つを総合した、いわゆる『認識台湾』教科を履修するように初めて規定した。
1997年、中学校で正式に『認識台湾』教科書による教学が実施された。これは台湾教育史において、極めて重要な意味を持っていると言えよう。何よりも、「脱中国化」教材を用いる、この教科書の核心的思想は、「台湾人の悲哀」を学生たちに認識させ、「台湾魂」を育てることである。次に、過去の台湾史の教学は「拆開来」(分散的)方式で行われ、明清史や中国近代史の一部分として、ばらばらに叙述されていたのだが、『認識台湾』の教科書は、初めて台湾史をまとまった全体像として独自に叙述した。
『認識台湾』教科書は、構想から執筆まで、杜正勝が1995年に提示した「同心円史觀」と切り離せない関係がある。杜正勝は、歴史教育はそもそも地理空間の遠近に従って叙述を順次、展開すべきだと主張した。まず最初に郷土の歴史に注目し、次に台湾の歴史を教え、その次に中国の歴史を教えた後、アジア史と世界史を教えなければならないと主張した。[2]いくつかの順序を設定したが、杜正勝の主張の核心は如何にすれば、「台湾」の歴史が中国全体の歴史とは別に位置づけられるかであった。『認識台湾』教科書が正式の教材として採択されるに当たって、「同心円史観」も初歩的実現が可能になった。この教科書が中学校1年生たちの教材として採択され、中国史と世界史は学習順序で台湾史の後に置かれるようになった。
1998年、教育部は俗称「9年一貫」教育改革政策を正式に公布して、初等学校(6年)と中学校(3年)教育が有機的に連結する一貫教育体系を樹立しようとした。2002年に初めて現実化した、この政策は歴史科、公民科、地理科を「社会科」(この時には、すでに『認識台湾』教科書が無くなった後だった)に統合し、多くの論争を呼び起こした。中学校歴史教育がこのように大きな変化を迎えたので、高級中学(高等学校に当たる)の教育も自然と、それに相応する変化が求められた。
1999年、教育部は高等学校教育に関する「88課綱(学習指導要綱。以下指導要綱)」を提出して、「一綱多本」時代が開かれた。「一綱多本」とは教育部が指導要綱を提示すれば、各民間出版社がこれに依拠して、それぞれの専門家や学者を招いて教科書を編纂する方式をいう。それまで歴史指導要綱は、依然として台湾史を中国史の一部として規定していたので「、88指導要綱」を基準として編纂された教科書は、以前に教育部が内部で編纂した教科書と相当類似していた。
2000年、台湾においては国民党が政権を失い、民進党が執権する初めての政権交代が行われた。平素(中国との)分離主義を主張していた民進党が執権すれば、分離主義に基づいた高等学校歴史教育がなされることは避けられなかった。
一般的に、以前には10年に一度、指導要綱が修正され、先の修正は1999年に行われた。しかし民進党政府は慣例を破って、2004年から2005年の間に、いわゆる「95暫定指導要綱」を作った。当時の教育部長(文部大臣)が、まさに「同心円史観」を提示した杜正勝である。「95暫定指導要綱」は「一綱多本」政策を継承しながらも、初めて「同心円史観」を高等学校歴史教育に適用した。下の表1で確認できるように、「95暫定指導要綱」は「台湾史-中国史-世界史」のカリキュラムの枠組みを基本とした。これで台湾史は中学校教育課程において完全な独立科目として定着し、続いて高等学校カリキュラムにおいても同様な位置を得るに至った。「95暫定指導要綱」が大きな論争を引き起こしたが、民間出版社は先を争って、新しい指導要綱に従って、歴史教科書を編纂し、これらの教科書は高等学校教材として使われた。
表1:高等学校歴史教学カリキュラムの変遷

「脱中国化」と「一邊一國」論[3]の体制を強調するために民進党政府は「95暫定指導要綱」を基礎として分離主義的傾向をますます強めた「98指導要綱」を押し出してきた。これも激しい論争を引き起こしたのみならず、以前に比べはるかに大きな紆余曲折を経た。2006年に提出された「95暫定指導要綱」は、2009年から実施される予定であったが、2008年の政権交代で民進党が下野し、国民党が再び執権するようになって、曲折を経た。国民党政府が任命した新任教育部長が、民進党政府が採択した「98指導要綱」をそのまま教育現場に用いようとして、激しい反対に遭った。論争を収束させるために新政府は、歴史科目の場合には、「95暫定指導要綱」を継続して教科書編纂の準拠とすると決定した。[4]
「98指導要綱」をめぐる争論はそれぞれ立場が異なる学者によって、少なくとも三つの修正案が提示された。しかし、結局は「98指導要綱」に根拠して作られた高等学校歴史教科書は、一つもなかった。これは、歴史科目に対しては「98指導要綱」の適用にブレーキがかかり、何よりも教育当局が新しい「指導要綱委員会」を組織して、「98指導要綱」に代る「101指導要綱」を提出したからだ。表1で分かるように新指導要綱は依然として「同心円史観」にパターンを置きカリキュラムを編成しているが、少なくとも二つの顕著な変化が現れた。
(1)中国史は外国史から半学期分の教学時間をひねり出した。(2)高等学校3学年の「テーマ学習」を「世界文化史」に替えた。
「101指導要綱」とその前に施行されたいろいろな指導要綱が全て論争の対象になったが、これら指導要綱に根拠して編纂された歴史教科書が、「95暫定指導要綱」によって編纂された教科書に代って、2012年8月から教育現場で使用され始め、「101指導要綱」は「98指導要綱」が果たせなかった事業を果たしたと言えるが、問題が無くはなかった。「101指導要綱」を基準にして編纂された歴史教科書の中で「慰安婦」の中には、「自ら望んだ場合」も無くはなかったと叙述したり、日本の侵略戦争を「聖戦」と叙述したりした場合が指摘された。[5]この版本は最終審議過程で脱落した唯一の教科書ではあるが、思いもつかない表現が歴史教科書に登場したのは、「自由主義史観」と「歴史修正主義」が日本において悪影響を表し始めていることに世界が関心を持っているその時に、類似した危機が日本以外のアジアにも存在していたということである。
すでに教育現場で採択されている教科書の基準になる「101指導要綱」はさらに大きな論争を引き起こした。その中でも核心的な争点は指導要綱と教科書に異なって表現された用語の問題である。勿論、用語と関連した論争は「101指導要綱」で初めて持ち上がったのではない。民進党政府の教育部長を務めた時期(2004~2008)であった2007年、杜正勝は民間学術団体に「海洋教育と教科書用語の適正性に対する検討」という研究プロジェクトを委託した。研究結果は、ほとんど5000個におよぶ「不適切な用語」が教科書に現れていると指摘したのだが、表2の用例が代表的である。
「海洋教育と教科書用語の適正性に対する検討計画」は用語を修正し、台湾海峡両岸の歴史を連繋させる各種の文字と段落の削除を意図し、「95暫定指導要綱」と「98指導要綱」を補強した。これは2014年初に出した「101指導要綱」に若干の修正を加えた「101指導要綱微調整版」も(反対の立場で)似たような方法で「101指導要綱」の修正の通過を意図した。「101指導要綱微調整版」の編集者は「中華民国憲法」を修正の根拠としたと主張しながら、台湾海峡両岸の歴史的連携性を強調し、併せて「台湾地位未定論」[6]のような見解の出現を未然に防止しようとした。
「海洋教育と教科書用語の適正性に対する検討計画」と「101指導要綱微調整版」の違いは、単に政治的立場の対立に限られたものではない。「海洋教育と教科書用語の適正性に対する検討計画」は終始公開されず、教科書出版社にだけ、内部参考用として提供されただけである。そして「用語検討」の対象も、これらの出版社で編纂された教科書に限定された。反面、「101指導要綱微調整版」は、教科書ではなく、公開的に社会各界の意見を収斂した指導要綱である。このような次第で「海洋教育と教科書用語の適正性に対する検討計画」に根拠した教科書「検定」は枚挙のいとまがないが、「101指導要綱微調整版」ははるかに大きい論争を引き起こした。
以前の「95暫定指導要綱」と「98指導要綱」を支持する立場に立った学者が「101指導要綱微調整版」を最も強力に批判した。彼らは新しい指導要綱が「脱台湾化」と「中国化」に過度に重点を置く傾向をみせ、台湾主体性を深刻に損ねていると考えた。相対的に以前、「95暫定指導要綱」と「98指導要綱」を批判した学者は、「101指導要綱微調整版」を支持する立場から、彼らは歴史指導要綱の微調整は「脱日本化」であり、「台湾化」の増強であると主張する。
表2「海洋教育と教科書用語の適正性に対する検討計画」で示された例
| 不適切な用語 | 修正後の用語 |
| 大陸、中共、中国大陸 | 中国 |
| 我が国 | 中国 |
| 光復 | 戦後 |
| 武昌起義 | 武昌起事 |
| 日拠[7] | 日治[8] |
| 両岸 | 両国 |
| 中日戦争 | 日清戦争 |
| 詩詞 | 中国詩詞 |
| 唐朝 | 中国唐朝 |
| 古人、古書、古代 | 中国古人、中国古書、中国古代 |
| 中外 | 国内外 |
| 清光绪31年 | 日治時期明治38年[9] |
2014年上半期に台湾で発生した一連の社会運動を振り返ってみると、「101指導要綱微調整版」に対する批判運動が、その後発生した一連の「反中国」運動の始発点となったという事実を見いだせる。「101指導要綱微調整版」の完成を主導した王曉波が、2014年「2.28」記念行事での「失言」[10]で独立派の強い批判を受けてまもなく、学生たちが立法院(国会)を占拠する「3.18学生運動」が発生し、台湾で、「反中国」の雰囲気が激化した。歴史指導要綱に触発された論争は、一見、学術または教育問題であるかのように見えるが、実際は終始政治問題であった。2014年上半期、台湾で発生した一連の事態を通じて、この点をより明確に確認できる。歴史指導要綱をめぐる論争が、1980年代から台湾でますます激烈に進められた「統独[11]」論争と密接な関連があるのは疑う余地がない。これまで進められた歴史指導要綱をめぐる論争の本質は、政治問題であり、単純な学術問題ではない。問題の核心は決して「既存の歴史認識を全面的に覆すほど歴史学の新しい研究結果が出現して、歴史教科書に対する改革を推進」しようというのではない。もしも政治問題を学術問題のように扱うか、あるいは「学術」という名で「政治」問題を包装して隠そうとするなら、決して台湾の歴史教育問題を直視することはできない。
しかし歴史教育問題をめぐり発生した政治的論争を単に台湾内の「中国統一派」と「台湾独立派」が展開する歴史解釈権掌握の闘争としてだけ片づけるわけにはいかない。「95暫定指導要綱」と「98指導要綱」を支持するからと言って、かれらを端から「独立派」として単純に分類することはできない。同様に「101指導要綱」と「101指導要綱微調整版」を支持する学者を全てを単純に「統一派」と見なすことはできない。絶対多数の台湾民衆はすでに「中華民国」は「台湾」の「国号」であるとみなしており(しかし台湾を含む「全体中国」の国号ではない。論争中の両派の学者は「中華民国」のある部分を受け入れる―例えば、「中華民国憲法」であり、もう一方は「中華民国」の名称である)―これは両派の学者を「中華民国(という多義的用語)」によって混然一体とさせるだけではなく、独立派あるいは統一派の主張を徹底して貫徹することを難しくさせている。
「101指導要綱微調整版」を例に挙げてみよう。この版本を擁護する学者は必ず「中華民国憲法」を高等学校歴史指導要綱に使用される用語に対する基準としなければならないと主張する。これは独立派の学者が過去に擁護した「海洋教育と教科書用語の適正性に対する検討計画」と本質的に異なるところのない主張である。異なるところが無いだけではなく、これらの学者の重大な思想的窮地をも曝け出している。台湾史研究を許さなかった国民党の戒厳時期(1950~1987年)、「101指導要綱微調整版」を提出した学者の中には、危険を冒して台湾史研究に邁進した学者がおり、先駆者であったことは否定できない。台湾史研究が日々活発になりはじめた最近20~30年の間、これらの学者は、それ以上台湾史研究を深く進められず、独自の台湾史解釈領域を開拓するのに失敗した。のみならず、彼らは独立派が主導権を掌握した台湾史研究の内在的論理と趨勢に追いつくことができなかった。甚だしくは中国史や世界史の叙述方法も掌握しきれなかった。このような状況で独立派の学者の研究成果を根幹として完成した指導要綱や教科書は、幾つかの用語を修正したからと言って、決してその本質まで変えることはできない。言い換えるなら、台湾史(ないし中国史と世界史)解釈に対する新しいパラダイムを提示できず、独立派が構築したモデルを修正するか、独立派のパラダイムの「補強」に変わってしまうのである。このような「主観的には反独立、客観的には独立助長」の状況は、両陣営の学者が未だ、異なる学術的立場から論争を進めておらず、両陣営が造り出した主観的政治的立場にこそ、両者を区別する鍵があることを意味する。これがまさしく、台湾の歴史教育論争が陥っている悪循環の基本的前提である。
二.歴史教育をめぐる論争の背後にある思想問題
(1)「官/民」二元対立
振り返ると、杜正勝をはじめとする独立派の学者が1990年代に提示した「同心円史観」と最近20~30年来、独立派の学者が成し遂げた約400年の台湾史に対する大小の研究成果こそが、独立派の学者が国民党史観を覆す理論的基礎である。独立派の学者は自らの研究成果に基礎して、彼らだけのモデルを構築し、これを歴史教育をめぐる論争で敵方を縛る武器として活用した。しかし、歴史教育論争の病弊は、単に独立派の学者が打ち立てた台湾史関連の各種の錯誤にだけあるのではなく、深く台湾史の各種論点の解釈方式に踏み込んで、独立派の学者は自分たちが造り出したモデルを「民間の」、「最新の」、「学術的」研究成果として包装し、自分たちに反対する教育路線、指導要綱、教科書、学者を「御用」の「陳腐な」、「非学術的」なものとした点にある。「民間/最新/学術」の成果と「御用/陳腐/非学術」の政策の間に不断に作り出された対立を一括りにして「官/民」の2元対立とし、この二元対立の不断の造成は、独立派学者が歴史教育論争に介入し、リードする主要な論法および策略となる。
「官/民」2元対立は実はすでに久しい戦略である。台湾史研究は、国民党政府に反対する「党外」運動[12]の勃興と軌を一にしており、「民間」の形態をなした学問である。この新しい学問は独立派の運動に伴い、次第に政権を獲得し、民衆の認識を変化させ、大学と無数の主流の学術機構に浸透し、ついには台湾歴史学界のヘゲモニーを掌握した。これは、一言で文化政治の闘争策略だと言える。しかし歴史学界の主流を掌握した後にも、独立派の学者は依然として自分たちの研究成果を「最新」の「学術的成果」として装うことをはばからなかった。これは、すでに主流の音楽になった非主流の音楽が、その後にも非主流の音楽を自称することと同じようなものである。その結果「中華民国憲法」を用いて論争に介入する一部の統一派の学者は、依然として、非「民間」、非「最新」だけでなく、甚だしくは「学術」というにも足らないものとして批判され、おのずから政治的に正確な批判をなすすべを持たない。
独立派の学者は「官/民」二元対立を操って、以前に問題にならなかった問題を取り上げ、問題化し論争を引き起こした。同時にある問題は「脱問題化」し、討論を終結させて、独立派が造り出した歴史叙述に帰結させた。台湾と中国大陸との間の歴史連繋問題が最近の「歴史問題」の主戦場である[13]が、独立派の学者が編纂した「95暫定指導要綱」が中国史の教学を1500年までにする先例を作った。1500年以後の中国は世界史に融け込み、そのころから台湾史の主要な叙述を展開する。このような叙述方法は、中国史を薄め、台湾史を中国史から切り取ろうという意図を露わにしている。これは同心円史観が作り出した結果である。別の一部の学者が作った指導要綱では、台湾史は三国時代(西暦220~280年)から始めなければならないと主張する。このようにしてこそ、中国が早い時期から台湾を発見し、経営したこと説明できるからであるとしている。これに対して独立派の学者は強く批判した。彼らは中国人が三国時代に台湾を発見したかどうかは、いまだ決定しておらず、論争中であるのに、「定論のない」歴史叙述を指導要綱に書くことに反対する。すなわち、政府がどうしても「定論の無い」叙述を指導要綱に載せるなら、ここには「論争」があることを明記しなければならないと言う。―考えるべきことはこうである。指導要綱や教科書のに叙述において、「論争」があることを注に明記することは、特定の歴史解釈を問題化させる。ただし、このように「統独」闘争の脈絡での「問題化」をはめ込んでも実際には何ら有意義な思考を生み出さない。その結果は、実際には「脱問題化」になってしまう。
今一つの「問題化」で高度の関心を引き起こしたのは慰安婦問題である。最近の「101指導要綱」によれば、教科書に必ず「慰安婦」問題を扱うよう要求している。しかし前述したように某出版社で編纂した教科書は、慰安婦を「自願」した場合もあったと叙述した。こように指導要綱と教科書の落差が問題視されると、「101指導要綱微調整版」は、一歩進んで「慰安婦」を「強要されて慰安婦になった婦女」と規定した。すると独立派の学者が異議提起し『「強要」という表現が指導要綱に加えられることは穏当でない。強要があったかどうかは、教科書から削除すべき』と反発した。しかし慰安婦問題を扱う教科書に「自願」という表現が公然と登場しているのに、指導要綱が「強要」という表現を要求するのが問題と言えようか?「自願」して慰安婦になった場合があったかどうかは「問題化」されえない「架空の問題」である。日本植民統治者たちが女性を無残に蹂躙した制度を創り出したことを無視して、その中には自ら望んで蹂躙されるために慰安婦になった女性もいるという論法は、客観的に見て日本が植民地において犯した罪悪を軽減しようとするものであり、もしも「自願」して慰安婦になった女性が、実際、いたとしても、生活に迫られたためであり、慰安婦になるように「強要」されたのではないか?これら女性を慰安婦にならざるを得ない劣悪な生活環境に処せしめたことは、植民地統治が作り出した結果ではないのか?しかし、一時期半世紀にもわたる日本の植民統治を受けた台湾でこのような主張がどうして出てくるのか?その原因は一つや二つではないだろうが、このような言論は「精神的荒廃」であり、「植民地の傷跡」を癒やす術がないことの表れである。
「民間/最新/学術」的研究成果は「官/民」二元対立の枠組みの下では、往々にして覇権的地位を持つ。ただし、どの一派も官の権力を必要としないわけではない。実際上は、ある一派を支持する政治勢力が政権に就けば、指導要綱を修正できる権力を掌握することができる。修正の内容と「民間/最新/学術」の成果の関連の有無は実際は必要条件ではない。「101指導要綱」以来、独立派の学者が重要視しない台湾人の抗日活動開始、特に大陸に赴いて抗日運動に参加した各種事例を指導要綱に入れている。この他、台湾が日本植民地支配時期に受けた被害と搾取についても同様に突出している。独立派の学者が主導した「95暫定指導要綱」と「98指導要綱」は、日本の台湾「近代化」建設と台湾人の中国の外部でのアイデンティティの構築をさらに重視する。これが独立派の学者が「95暫定指導要綱」と「98指導要綱」を支持し、「日本植民地統治を美化」する原因である。「日本植民地統治を美化論」は日本が台湾のために西欧の「近代」を輸入したことを肯定する。一方で革命中国の「混乱」と「落後」を強調し、他方では社会主義の実践を貶す。この種の観念は「西方中心論」のみならず「歴史の終焉論」をも含意している。この意味において、もし「同心円史観」と同時期の李登輝の「経営大台湾、建立新中原」のスローガンを類比するなら、明らかなことは、「新中原」の台湾を円心に設定し、自らを中国のみならず、台湾そのものにも優越した先進的西方に位置づけている。
教科書がいかなる意味で「最新」、「学術」の成果を反映せねばならないのか?いかなる意味で教科書は「官」(例えば憲法)の基準ではなく、「民間」の基準に依拠せねばならないのか?「憲法」を基準とするのか、「民間/最新/学術」の成果を基準とするのかは誰が決めるのか?[14]―という現在までの論争には未だ答えは出ていない。教科書を通じて一定の観念を学生たちに注入して、民族国家が必要とする国民を培養する必要がある。しかし、この過程で教科書にあえて「民間/最新/学術」的研究成果を(このような研究成果が特定の民族国家の国民性を定型化する一助となればいざ知らず)反映する理由はない。独立派の学者の主導下に1990年代に編纂された中学校『認識台湾』教科書は、公然と「台湾魂」と「台湾人の悲哀」を強調した。しかしこのような方式の叙述を「民間/最新/学術」的研究成果と見なすには無理がある。ただ、独立派が打ち建てようとする新しい「民族国家」および「台湾国民の錬成」のために必要であったので叙述が認められたのである。
もしも民族国家が指導要綱や教科書などの機制を通じて人民の思想をコントロールしようとするなら、唯一の可能な方向は「民族国家批判」であり、そこから指導要綱や教科書を批判することである。今までの教科書論争で或る学者たちは「民族国家批判」の視点から論争に介入しようと試みた。では「民族国家批判」の展開が可能ならば、教科指針と教科書の批判だけで満足できるのか?批判の対象は確かに、さらに大きく多様な次元へ拡がらなければならない。実際に台湾で最近30年間、「官/民」二元対立構造は「民族国家批判」を提示したが、ある形式的な「民族国家」に対して、真摯な批判がなく、現存する「民族国家」批判(例えば、国民党の「党国体制」)によって、自らの民族国家建設(例えば「台湾共和国」)のための特定の空間を確保しようとするものである。[15]こんな方式なら、歴史教育論争において提起された「民族国家批判」は、果して信頼に値するのか?[16]結果的に、論争中の両派の学者たちの目標は指導要綱を制定して教科書を編纂するのに有利な高地を占領することであり、指導要綱と教科書を廃止しようとするものではない。こんな背景を持つ「民族国家批判」は自ずから完全に無効である。
(2)同心円史観の理論と実際―日清戦争の叙述を例として
1990年代半ばに杜正勝の提示した同心円史観が、もちろん自分に近くの「郷土」を歴史教育叙述の起点とすることは、世界の他の国家と地域でも採用している教育方式である。[17]しかし台湾の特殊な政治環境の中で、「同心円史観」が作り出す分離と教育順序は、特定の歴史解釈と価値観を反映している。
公正に言って、身近な「郷土」を敍述の起点にする「同心円史観」は独立派だけのものではない。実際に、20世紀に中国革命の「民族形式理論」は「郷土」の大切さを強調することから始まった。民族形式論によると、民族形式はあらかじめ存在するのではなく外部から与えられる形式である。それは新たに作られた新しい事物だ。郷土は、「地方形式」を源泉として、「国際主義」によって内容を獲得しながら、民族形式を生み出す。[18]費孝通(中国近代社会学の創始者)は「差序格局(等差モデル)」理論を提案したが、中国人の関係は近くから外に向けて拡張し、漸次、他人と関係が発生するという理論である。このように、郷土の大切さを強調することは、20世紀中国思想の資源から発生した流れだった。自分に近くの「郷土」から歴史敍述を展開すれば、なんら政治問題や危険が無い。
「地方形式」を「国際主義」の内容にして、はじめて「民族形式」が生れる―身近な「郷土」から敍述を展開し、さらに広い時空間で展開した歴史敍述と結合させる、このような結合能力を培わなければならない。「95暫定指導要綱」以来、設定された中高等学校歴史学習の「核心能力」―「過去と現在を関連づける」―を充分に育てるためには、こういう「関連性」を作り出し、台湾史教育から教えはじめて、統一派と独立派の全てが受け入れられる教育方式を導けなくはない。まず世界史を教えて、中国史を教えて、最後に台湾史を教えることも可能だろう。[19]問題は、杜正勝の「同心円史観」が実際では、台湾史が中国史外部に「新しい時間」として独立的に存在するように、条件を形成したという点である。だから学生たちは台湾史の学習を通じて中国史の必要性を認識できなくなったし、同時に中国史を学習する時には、中国史と台湾史の関連性を見つけにくくなった。杜正勝が設計した同心円は相互補完しない上に、重なった同心円でもなかった。それはただお互いに重ならず、交渉しないそれぞれの三つの円である。ただそれぞれの円が分離していないだけである。こんな構造で「過去と現在の関連性」を見つけ出すことはとても難しいと思われる。
日清戦争の敘述およびその変遷は、同心円史観とその影響をうかがい知る格好の切断面である。日清戦争は台湾海峡両岸の第1次分断の鍵となる事件であり、同心円史観の要点は海峡両岸の共同の歴史を中国史と台湾史に分割することである。現在までで、日清戦争に対して最も詳しい台湾の教科書は、88指導要綱の前の「一綱一本」の教科書で、俗称、「部編本」(教育部編纂本)教科書である。88指導要綱は「一綱多本」の「歴史指導要綱/歴史教科書」の二元構造とした後、日清戦争の敘述も指導要綱と教科書の二部分に分かれた。ただ「同心円史観」によって歴史教学を台湾史、中国史、世界史の三つの敘述に分けるなら、日清戦争は台湾史と中国史の二つの異なった脈絡に置かれる。すなわち、まず台湾史の《普通高中歴史第一冊》(以下、「台湾史教科書」)で日清戦争を学び,その次に中国史の《普通高中歴史第二冊》(以下、「中国史教科書」)で二度目、この事件を学ぶ。日清戦争を二度学ぶ機会はあるが、日清戦争は当面の台湾中学歴史教育の教学の重点ではない。歴史指導要綱は不断に論争を引き起こし、論争中に不斷に新しい指導要綱が出され、立場が異なる学者が指導要綱をめぐって異いを発生させ、また異なる二元構造を作り出す。かくして三重の二元対立を生み出す。つまり、「旧指導要綱/新指導要綱」の対立、「指導要綱/教科書」の対立,「台湾史/中国史」の対立である。
過去、「部編本」は日清戦争を、(1)「帝国主義の中国侵略史」、(2)「清朝の洋務運動史」、(3)「戊戌変法維新運動史」および(4)「台湾人民武装抗日史」など4つの脈絡の中に、戦争の原因、過程および結果を網羅した。しかし、後に同心円史観によって台湾史と中国史が区分されて、教科書自体が別に編纂されてからは、日清戦争に関する叙述がバラバラになってしまった。一般的に中国史教科書では、(1)~(3)の中から一つか二つを選んで日清戦争を叙述することが一般だった。例えば、維新運動の発端を説明するのに、日清戦争の失敗から始めたり、日清戦争を洋務運動失敗の象徴として叙述したりする式である。一方、台湾史教科書では、日清戦争を主に上記、4番目の脈絡と連結させて記述したり、あるいは4番目の脈絡を主にしながら3番目の脈絡と若干連結させて叙述する方式が一般のだった。(例えば、日本の最初の台湾侵攻の口実となった牡丹社事件に対する補充説明)。[20]しかし各出版社で編集した台湾史教科書と中国史教科書の日清戦争に関する叙述を合わせても「部編本」の叙述分量には及ばなかった。
総じて、中国史と台湾史とに教科過程が分かれて、日清戦争が教科書で「消え去る」危機に瀕した。多くの台湾史教科書が日清戦争が勃発した原因に対する叙述を無くしたり、あるいは「帝国主義中国侵略史」、「清朝の洋務運動史」、「戊戌変法維新運動史」などの脈絡で日清戦争に対して言及しなくなって、日本の中国侵略と、これが原因となった台湾割譲の事実が薄くなっている。これは台湾史教科書が日清戦争と台湾の関係に対する解釈を放棄する傾向にあることを意味する。しかし、中国史教科書を通じて日清戦争に関するその他の知識を「補充」する方法が無いわけではないが、台湾民衆の国家に対する認識体系がいくつにも分かれている状況で、このような「補充」がどれだけ効果を収めるかは未知数である。日清戦争の敗戦で台湾が中国から分離されたことは、明らかな歴史の事実である。しかし、中国史とは別途に編纂された台湾史教科書の日清戦争に対する叙述では、このような事実に対して大した重要性を置かない。台湾史教科書の日清戦争に対する認識は、台湾の統治者が「再び」変わったという程度の意味に過ぎない。
他方では、台湾史教科書の日清戦争に対する叙述が例外なく、「台湾人民武装抗日史」の脈絡で叙述されているが、日清戦争後と関連した新しい多くの脈絡も登場した。(1)台湾武装抗日運動での非抵抗あるいは軟弱な傾向、(2)日本当局の寛容政策(例えば、台湾住民が2年以内に自由に国籍を選択できるよう許した部分など)と、それに続けて展開する「近代化建設」、(3)新しい抑圧統治手段である日本警察制度の成立などがそれである。
最も注目すべき傾向は、大多数の台湾史教科書が1930年代に発生した霧社事件を乙未年(1895年、台湾併合)以来の「台湾人民武装抗日史」の部分に含めて叙述している。他方で、ある教科書では「台湾人民武装抗日史」の脈絡を二つに分けて叙述している。この場合、乙未年以来の武装抗日運動を叙述した後に続き、警察制度の成立を記述し、再び霧社事件をはじめ警察制度成立後発生した各種の武装抗日運動を叙述する方式である。
叙述方式はともかく、霧社事件を教科書に収録したことだけでも、大きな進歩と言えよう。しかし「台湾人民武装抗日史」の脈絡が日清戦争の後に集中的に叙述され、日本が台湾で進めた「近代化建設」が「台湾人民武装抗日史」以後の歴史の中心になってしまう結果を招いた。これは歴史叙述の偏向性が隠然と作用した例である。
台湾史教科書は日清戦争が台湾の運命を決定づける重大な意義を持つ事件であるという点をぼやかし、台湾では日清戦争に対する記憶も日増しに薄くなりはじめたので、2013年、台湾で「6.17」始政記念(日本が正式に台湾で「始政」したことを宣布した日)行事が行われる荒唐無稽な状況が繰り広げられたことも想像を超えるものではない。[21]
三.高等学校歴史科教学問題[22]
「95暫定指導要綱」と後続の各種の歴史指導要綱が提示されるにしたがい、これを巡る不毛な政治対立が絶えなかった。しかし高等学校歴史指導要綱改革によって派生した問題は、政治問題にだけ限られたことではなかった。
「95暫定指導要綱」では、初めて高等学校の歴史教育は必ず「核心能力」を培養するのに主眼点を置かなければならないと明示した。以後、出現した各種の指導要綱は多かれ少なかれ、字句に若干の修正があるが、基本内容は「95暫定指導要綱」のそれと大きく違わなかった。「101指導要綱微調整版」は次のように核心能力の培養を強調した。
- 一.歴史事件発生の時間の順序を表現する能力。
- (一)時間を描写する各種の述語を活用して過去を叙述し、幾つかの重要な時代区分法に対して理解できるようにする。
- (二)過去と現在の違う点を認知できるようにして、過去と現在の関連性を把握できるようにする。
- 二.歴史を理解する能力。
- (一)歴史教材の本文について、その内容と歴史的意義を把握できるようにする。
- (二)歴史の脈絡を把握して関連する歴史的事件、現象あるいは歴史的人物の重要性の異同を理解できるようにする。
- 三.歴史解釈の能力。
- (一)歴史的事件の因果関係に対する解釈を提示できるようにする。
- (二)関連歴史的事件、現象あるいは人物の重要性の異同に対する評価する能力を培養する。
- (三)それぞれ異なる歴史解釈を分別して、歴史解釈がされた原因を説明できるようにする。
- 四.史料活用の能力
- (一)主題に合わせて、史料収集を進められる能力を育てる。
- (二)史料が証拠として適切性を持つかどうか分別できる能力を育てる。
- (三)史料を活用して、新しい視野を備え、独自の歴史叙述が可能なように能力を育てる。
「核心能力」理論の最も大きな問題点は、高等学校歴史教育の現実と余りにもかけ離れていることである。初等学校と中学校で「9年一貫」教育が行われて、歴史科目は「社会科」に含まれてしまった。このような状況で中学校歴史教育が高い水準で行われることを期待するのは不可能である。にもかかわらず、高等学校歴史教育で要求される「核心能力」は、大学で歴史を専攻している学生たちに要求される程度に準じるものである。[23]理想と現実の違いがあまりにも大きい。2014年秋学期から実施される「12年国民教育」(高等学校教育まで国民教育に含む制度[24]に合わせて、中学校と高等学校の歴史教育が連携性を持って、徹底した準備が必要である。事実上、「101指導要綱」と微調整版は「12年国民教育」実施に合わせて提出されたものである。にもかかわらず、歴史教育論争に飛び込んだ各方面の学者の中に誰も「核心能力」理論に対して、真摯な検討が無いことは驚くべきことである。このような状況でどのように中学校と高等学校の歴史教育が連携性を保てるのか?[25]
事実上、「95暫定指導要綱」以後、出現した各種の指導要綱の内容とこれに従って編纂された教科書は「核心能力」の理想と矛盾する部分が少なくなかった。現在、高等学校歴史過程に反映されている、「同心円史観」では決して「過去と現在の連関性」を明らかにできない。高等学校歴史教科書に投影された「脱時間化」は、学生たちが「歴史事件発生の時間の順序を表現する能力」を育てるのに妨げになるのみならず、「歴史を理解する能力」、「歴史解釈の能力」、「史料運営の能力」を育てるのにも全く助けにならない。歴史教科書の「脱時間化」は二つの方面で表現されている。
(一)時間叙述で脱「王朝化」したことである。このような現象は中国史の範囲で特に顕著である。(二)叙述方式の「専題(テーマ)化」である。時間の限界を超えて歴史上、類似した主題を集中的に討論する方式である。(しばしば、日清戦争以後、各時期の台湾で展開した武装抗日運動を集めて叙述する方式)。このような傾向は、「95暫定指導要綱」に根拠して編纂された高等学校3学年歴史選択科目で特に顕著である。
教科書で「脱時間化」を試みた本旨の是非はともかく、このような教科書を通じて歴史を勉強した学生たちは、凡そ時間感覚が漠然とするのみならず、歴史上の人、事件、地理、事物を正確に歴史の時間と一致させる能力も落ちるようになりがちである。歴史上の時代区分法をろくに知らなかったり、歴史の流れに対する感覚が不足した学生であるほど、中国史の展開過程に対しても理解が劣ることはむしろ当然であると言えよう。世界史の教学は文明史中心に進められ、中国史の教学は政治史中心に進められるのが一般のである。(したがって、王朝の変化過程を理解することが極めて重要である)。反面、台湾史教学は明清史と同様に社会経済部門に集中する傾向がある。結局、「脱時間化」の否定的影響は中国史および台湾史の中国史部分に最も強く作用している。
だからと言って、「脱時間化」が必ず「脱中国化」を意図したとは言えない。鍵は、「脱時間化」がどのような環境の産物なのかということである。やはり「一綱多本」政策を採択している中国大陸の高等学校歴史教育を例に挙げてみよう。以前の歴史指導要綱(すなわち「全日制普通高級中学歴史教学大綱」)は時間の順序を重視したが、現在普及している指導要綱(即ち「普通高級中学歴史科程基準(実験)」)は「モジュール化」を強調している。これは先に台湾歴史教育で例を挙げた「テーマ化」あるいは「脱王朝化」と同様の意味がある。[26]前後の二つの指導要綱に根拠して編纂された各各の教科書はその内容が大きく違う。日清戦争の叙述を例に挙げてみよう。「全日制普通高級中学歴史教学大綱」に依拠して編纂された教科書[27]の日清戦争に対する叙述は台湾海峡両岸をおしなべて最も完璧であると言える。日清戦争に割愛した紙面は想像を超える。反面、「普通高級中学歴史科程基準(実験)」に依拠して編纂された新版教科書[28]では、日清戦争に関する叙述は大幅に減ったので、台湾高等学校中国史教科書のより多いとは言えない。それに新版教科書は日清戦争を「近代中国の反侵略、民主主義追及の時代潮流」という「モジュール」の一部で扱っているにすぎない。これのみならず、新版教科書は中国史に属する主題を「近代西洋資本主義政治制度の確立と発展」、「科学的社会主義理論から社会主義制度の樹立まで」という、世界史関連の主題の中に入れている。しかし、モジュール間の配置を時間的前後関係を基準にしているが、中国史も世界史も一貫して講じていないのは明らかである。中国大陸の政治言語環境が高度の愛国主義教育を形作っているので、この種の新鮮な「モジュール化」の枠組が「脱中国化」に繋がる心配はない。もしも、台湾の歴史指導要綱が努めて台湾と中国の歴史を区別しようとするなら、中国の『普通高等中学歴史過程基準(実験)』のロジックは、かえってこれまで区別されてきた歴史叙述の流れ(例えば、世界史と中国史の区別)の交錯を引き起こし、「モジュール化」を通じて、新しい叙述様式を生産するのである。中国史と世界史をクロス叙述する方式は、独特な試みだと言えよう。「モジュール化」は
「脱時間化」という意味も内在しているが、これがために台湾高等学校歴史教育で争点として浮上したさまざまな後遺症が同じように出現するとは断言できない。鍵はやはり「脱時間化」がどのような環境の産物であり、どのように運営されるかに拠っている。相対的に中国大陸の政治環境においては「脱時間化」が「歴史虚無主義」、「歴史修正主義」ないしは「脱政治化」、「脱革命化」という後遺症を産む可能性がますます高まっていると言えよう。[29]続いて台湾歴史教育の問題点を点検してみよう。教育改革が終始「試験のための教育」という悪循環
を断ち切るのに失敗して、必然的に学生たちに独立的な考えを奨励する「核心能力」理論と矛盾するしかなかった。結局、高等学校歴史教育は往々にして、大学入試の歴史科目の類型が変化するのに合わせて変わる過程を経てきた。しかし、10年来、大学入試歴史科目に「史料解読」型問題(特定の史料を読んで正確な答えをする)を出題する比重が高まり、学生たちに若干の考えを要する問題が出された。だがこれが学生たちの歴史を考える水準を大幅に向上させたと断言することはできない。出題類型の変化にも拘わらず、学生たちの試験準備方式は依然として教科書を暗記したり、「過去出題問題」を反復練習する水準を越えられていない。現実的な考慮から高等学校歴史教師の教学方式も、学生たちの試験準備力を向上させるのに注力せざるを得なかった。
試験で少しでもいい点数を上げるために様々な奇妙な方法と現象が出現した。このような現象は大部分、出題者、教科書編纂者、教科書を利用して教学を進めらる教師および教科書を勉強する学生たちの間にある様々な違いから由来しているのである。歴史教師(ある程度は、学生たちまで含んでいる)たちにとっては、教科書に多くの「史実」が入っていることが最も重要である。このような「百科事典式」の教科書は、それぞれ異なる版本の歴史教科書内容をくまなく入れているから、学生たちの暗記に有利であるのみならず、父兄を「安心」させる作用もしており、これで歴史教師が父兄の「批判」を免れるのに助けになっている。同じ理由で教師や学生、全ての歴史科の「過去出題問題」を多く知れば知るほど安心する傾向がある。このような次第で「過去問題集」の出版に熱心な出版社が無くはない。その結果、現在の学生たちが試験のために2~30年前に出題された問題を勉強せねばならない状況で、どうして思考力の増進を望めるだろうか?このような現象は、学生たちの負担だけ加重させるだけである。
しかし、「百科全書式」の教科書が歓迎されているが、このような教科書は大部分固有名詞だけ羅列する傾向がある。このような教科書は、教師の説明に拠らねば、相互に内容の連携性を把握するのが難しい。したがって、「問題意識」を重視して、内容を叙述して、特定の名詞に対する解釈が豊富な教科書を採用した高等学校も少なくない。他にも、一つの学校で二種の教科書を採択できないが、歴史教科書の「相対化」に注目した学校も無くはない。つまり教科書中心の教学ではなく、歴史教師が独自に準備した講義録を主な教材として活用する場合が無くはない。講義録を自ら準備して教学を進める方式が、今のところ普遍的な趨勢の一つである。このような教学方式では、勿論、教科書を完全に排除するものではない。しかし独自に講義録を準備する過程で、それぞれ異なる版本の教科書で重点的に扱っている内容を参考にして整理することができ、これを通じて、採用している教科書に足らない「史料解読」関連問題を解く能力を培養して、学生たちの学習に裨益する(これで学生たちの負担が過重されるが)。一方、相対的に去る10年間、持続的に変る指導要綱に根拠して編纂された教科書が、各種の「民間/最新/学術の」成果を反映して、かえって教学の進行に困難が加重された。高等学校歴史教育に変化と調整が続き、去る10余年間、すでに自己流の教学方式になれたベテラン教師の中には無条件、最新の指導要綱とこれに依拠して編纂された新版教科書に従うよりは自己流の教学方式に固執する傾向もあった。歴史教師にも世代と各自の素質に従って指導要綱と教科書の変動に対処する姿勢を取ることもある。甚だしくは教科書を出版する出版社も指導要綱が変わっても―変動の幅が大きくなければ―既存の教科書の内容を大きく変えることを願わぬ場合が無くもない。[30]この意味において、歴史教師の間の世代と素質による違いを明白に見い出せる。
歴史教師の世代と素質の違いの顕在化は、近年の歴史教育変動で浮上した新しい変化の中の一つである。「95暫定指導要綱」から「98指導要綱」まで、高等学校歴史教師の間では、『中国史は教えても、教えても切が無い』という不満が急増した。(特に、中国近現代史の場合がそうである)。教師の批判のせいだったのか、「101指導要綱」は初めて中国史の教学時間を従来のI学期から1学期半に増やすことに決定した。教学時間に教えなければならない内容が多い理由は、中国の歴史が長いせいである。数千年の歴史をいくら「簡単に」扱っても重要な事実に対する補充説明を付け加えていると、時間が不足する。他方、何世代に渡っても、歴史教師は中国史に対しては比較的詳しい教育を受けたので、相対的に中国史教育は多様な教材の活用が可能であると考える。したがって、特に年配の教師は「自分たちが習った方式通りに学生たちを教えねば、何かが足らない感じ」を拭えない。反面、歴史教育改革の後、学校に通った教師の場合には、台湾史に対しては比較的に知識は多いが、その他の歴史の領域に対する認識と理解が相対的に貧弱な不均衡現象が顕著である。[31]いずれにしても、中国史は「教えても、教えても切がない」ので、多くの「解決」方案が提示された。しかし、台湾史がすでに高等学校教育で独自の領域として定着し、それだけ独特な叙述体系をなしているが、一部の学校では、教育上の便宜のために「88指導要綱」とそれ以前の台湾史教習方式に戻って、台湾史をバラバラにして明清史と中国近現代史の脈絡に分けて教える方式を取っている。また一部の私立学校では中学校「社会科」の学習内容が相対的に豊富であるから台湾史を「受講済みの科目」と見なして、高等学校歴史科の台湾史の教学時間を減らして、代りにその時間を「教えても、教えても切が無い」中国史教学に割愛している。
一つ補充説明が必要なのは、一部の私立学校で、台湾史の教学時間を減らす理由を歴史教学に適用することは可能だが、目下、髙等学校公民科には適用できないということである。これは一面、中学校公民科教育の内容があまりにも簡単であるという理由と共に、高等学校公民教育が難しすぎるからでもある。現在、高等学校公民科教科書の政治学·経済学などの領域と関連した教学の内容の相当な部分は、ほとんど大学1学年水準に近付いている。したがって、高等学校公民科は、初めてから最後までどの部分も疎かにできない難しさもある。現在、台湾の民族主義は族群主義を越えて公民民族主義[32]の傾向を見せつつある。これに従って、高等学校公民教育が新しい戦場になりつつある。事実上、2014年に展開した教科書をめぐる論争は、歴史指導要綱に対する細微調整よりは、公民指導要綱の細微調整がもっと大きな波乱を呼びこしたと言ってもいいだろう。公民教育に対する論争と共に、歴史教育をめぐる論争もさらに拡大しており、その帰趨が注目される。
四.結論
「病の治療」のためには、「対症療法」が必要である。すでに悪循環にはまった台湾歴史教育をめぐる論争では、下の二つの問題が長期間未解決状態で残っている病症である。一つは台湾人民が一度も自分たちの力で日本の台湾植民地支配史を清算した経験が無いことであり、もう一つの問題は台湾人民が両岸の分断の現実を直視して克服する能力を培養できなかった点である。この二つの問題は、中日日清戦争後、台湾が経験した二回の「両岸分断」の歴史を通じて形成された。最初の両岸分断は1894年、日清戦争後、台湾割譲の結果であった。以後50年におよぶ、長期間、台湾は日本の植民地支配から抜け出せなかった。しかし1945年、光復で台湾は祖国の懐に抱かれたが、台湾省民と大陸から来た「外省人」(主に国民党の腐敗官僚)との摩擦が絶え間なく激化して、結局は1947年「2·28事件」に代表される衝突事件が発生してしまった。この事件に内在した重大な意義は「祖国」に向かった台湾人の期待が、国民党政府の失敗した「接收」によって大きく裏切られてしまったということである。この事件による打撃で特殊な心理が形成された。
台湾人の間に、一方、「中国」の統治を貶すとともに、相対的に「日本」の台湾植民統治を高く評価する傾向が高まった。このような認識の普遍化は結局、台湾人民が自らの力量で日本の植民地支配史を清算できないようにさせた最初の要因だった。
国共内戦の激化は、多くの台湾青年を彼らが選ばねばならない「祖国」が一つではなく、二つであるという認識を持たせるようにした。その一つは、国民党に代表される「白色祖国」であり、いま一つは中国共産党に代表される「赤色祖国」だった。その結果、「2·28」後、多くの進歩的青年たちが「赤色祖国」のアイデンティティ運動に参加しはじめ、その具体の実践の表現は中共地下党に加入することだった。その結果は大量殺戮と投獄に点轍された「50年代白色恐怖(テロ)」であった。これは国民党政府が最後に残った生存空間である台湾を固めるために展開した、残酷な赤色浄化であった。もしも「赤色祖国」のアイデンティティ運動が抹殺されなかったなら、台湾人民が自ら日本植民統治の歴史を清算する能力を生み出していたかもしれない。そのような機会すらも、1949年以後の二度目の両岸分断で消滅してしまった。
二度目の両岸分断以後の期間に、国民党政府は台湾人民に徹底した親米、親日、反共洗脳教育を実施した。これは台湾人民が日本植民統治の歴史を自ら清算して、両岸分断の現実を認識し、克服する能力を持てなくなった今一つの原因だった。(一)「親米、親日、反共」教育は、まず日本植民統治期間、台湾で展開された各種の反植民地左翼運動を台湾人民の歴史認識から消し去ることに力を注いだ反面、国民党(ないしは、そこから派生した民進党までも)は、自分たちの政権維持に無害な資産階級の民族運動を自分たちの歴史に連結させて叙述するのに努力した。これで台湾人民は自ら日本植民統治の歴史を清算する歴史の資源を喪失してしまった。(二)「海峡対岸」の中国大陸が共産党統治の「赤色祖国」に代わって、「親米、親日、反共」のスローガンは論理上「赤色祖国反対」、進んで「祖国反対」帰結するしかなかった。従って日本の台湾植民統治の歴史を清算することは、ますます難しくなった。「祖国反対」の心理が2·28に代表されるようにアイデンティティの挫折を経て、「赤色祖国」に対する恐れが不断に増大した結果は、国民党統治の台湾の「白色祖国」にも波及せざるを得なかった。これに従って台湾で「民主化運動」が起こってから、多くの歴史論述は往々にして国民党政府が台湾を統治する過程での如何なる「治績」をも貶す傾向を帯びた。ついには、このような「治績」を国民党政府以前に台湾を統治した日本植民支配者に帰するにまで至った。(三)より重要なことは、国民党の「親米、親日、反共」教育は、国民党が創りだした虚構が強い「中国史観」を重要な前提としていたということである。しかしこのような史観は、学術研究であれ、政治現実的にであれ、根付くことは難しいということを忘れてはならない。したがって、このような史観に依拠して進められた歴史教育は主観的には「脱植民化」の実現を目標としていたとしても、結局は、台湾人民に自力で日本植民地支配の歴史を清算する能力を持てなくするか、このような能力の培養を抑制するしかない。
総じて、両岸分断が国際冷戦と国共内戦の産物であるという事実は疑う余地が無い。最初の両岸分断の歴史が無かったなら、二回目の両岸分断による傷跡が今のように治癒が難しいほど進行しなかっただろう。その意味で日清戦争を通じて日本が助長したした中国分裂の現象は、現在の歴史認識に大きな混乱をもたらした根本原因であると言えよう。日清戦争以後、出現した一連の否定的結果は、台湾人民に自力で日本植民地支配の歴史を清算できなくさせるだけでなく、両岸分断の現実を直視してこれを克服する能力すらをも奪い、結局、「祖国=中国=海峡両岸」という認識が不断に破壊されるよう誘導した。「破壊」が持続することを防止するために同じ力を持つか、あるいはもっと強力な「反破壊力」が作用しなければならない。しかし、これまでの高等学校歴史教育をめぐる論争は、決して「破壊」と「反破壊」の衝突とは言えない。二種類の「破壊力」の悪循環であり、未来の形勢も決して楽観できない。
東アジア各国は全て教科書をめぐる様々な論争におおわれている。このような論争は全てとほとんど歴史をどのように認識するかという問題と関連している。自律性と完結性があった「歴史世界」がヨーロッパ資本主義の浸食によって、他の「歴史世界」と同様に、瓦解し、分裂しながら東アジア各地の歴史の経験も違いが現れざるを得なかった。[33]その中には帝国主義の歴史発展を図って失敗した国(日本)もあり、帝国主義の侵略で植民地経験をした国と地域(香港、台湾、「満州」、朝鮮半島)もあり、民族分断(海峡両岸、朝鮮半島、ベトナム)を経たり、甚だしくは人民民主革命の勃発と社会主義実践の挫折と戦火を経た国(中国大陸、北朝鮮、ベトナム)もある。しかし、もうこのような歴史経験はすでにこれ以上、東アジア各地が共有できる経験ではない。しかし現実生活の中では「自分」と関係ないとみなされた多くの歴史経験が不断に自らを省みる鏡として作用しうることを忘れてはならない。台湾と香港で発生した教科書をめぐる論争の発生の背景もここに求めることができる。帝国主義、民族分断および植民地化は台湾と香港が全て共有する歴史経験であるが、中国革命の全ての歴史経験―戦争/平和、革命/建設、社会主義/資本主義―が、また終始、台湾と香港人民の民族の一体感形成に重要な作用をした。これはすなわち「台湾史」が依然として(また必然的に)中国の歴史と関係ない別個の自律的な時間の中に存在しえないということを意味する。以上の結論に基づき、台湾高等学校歴史教育が進むべき道を提示しよう。第1に、1―2学年の歴史教学において学生たちの時間感覚を強化して、「脱時間化」の問題点を克服することである。第2に「互恵的比較」(reciprocal comparison)が可能なように、3学年に歴史選択過程を再び編成しなければならない。
第1の方案は基本的に「同心円史観」に触れないことを前提にせねばならない。なぜなら、「同心円史観」に基づいた教科過程編成(台湾史、中国史、世界史の順序で学習)が、すでに大きな政治の問題を引き起こしたのだが、再び問題にしてもこのような配置が変わる可能性はないからである。ただ可能なことは、1·2学年過程で学生たちの時間感覚を強化して、台湾史(時間感覚強烈)、中国史(時間感覚薄弱)、世界史の間の時間の壁を突き崩すことに期待する。
その意味で約20年来、明清経済史研究で発展してきた「互恵的比較」は「同心円史観」の欠点を正すことができる。「互恵的比較」は一種の比較史学である。この方式は異なる地域で彼我の基準の欠点を補完する方法がありうるということを示唆している。「互恵的比較」とは比較史の一種であり、それぞれ異なる地域の歴史発展を比較の基準として、各自の歴史発展の合理性を求める過程を言う。学者はこれを通じて挑戦的進化論と西洋中心論によって派生した多くの先入観と固定観念を打破できることを期待している。現在、深刻に対立している中国史と台湾史に照らして、去る一世紀間に発生した二回の両岸分断の歴史は、互恵的比較研究の対象として最も適合している。相互比較の過程を通じて、日本統治美化論を鎮静させるのみならず、台湾学生たちに去る世紀に継続してきた中国革命の合理性を理解させるのに助けになると期待する。中国革命がこれまで経験した成功と失敗に対して、錢穆が語った「温情」と「敬意」ではなくとも、少くとも「理解」の門を開くのに助けになりうる。
台湾の高等学校歴史教育を正しく導く鍵は、必ず「歴史修正主義」と「日本植民統治美化論」に対する反対闘争を世界的規模の進歩運動と連携させることである。目下、我々に最も重要な任務は東アジア各地の進歩的歴史研究者および教育者間の連帯に努め、相互に交流と理解を強化することにある。「歴史修正主義」と「日本植民統治美化論」に対する反対闘争が全東アジア的に展開されれば、以後の歴史教育変化に新しい変化の芽が成熟するであろう。
[1]本文中、台湾歴史教育の争点に関する部分は張方遠編,『高中歷史指導要綱烽火錄:從90指導要綱到101指導要綱的變革與爭論』(臺北:海峽學術出版社,2013)を主に参考した。この本には、歴史教育の争点に対する各種の評論および基礎資料が収録されている。
[2]杜正勝,「歷史敎育要如何鬆綁:課程架構可採同心圓方式,由內到外,從鄕土史,台湾史,中國史,亞洲史,世界史循序漸進」,『聯合報』,1995年1月23日,第11版「民意論壇」
[3]中国の一国2体制論に対して、2002年、陳水扁総統が中国と台湾は別の国だと唱えたもので、両岸の統一に反対する台湾独立派の主張のひとつ(訳者注)。
[4]争論によって、「95暫定指導要綱」が適用されたものに国文の指導要綱がある。この2科目を除いた他の科目は、「98指導要綱」が規定した新しい指導要綱を使用し始めた。
[5]「全華版」『普通高級中學歷史第一冊』。ただし問題になった版本は未刊である。後に刊行された「全華版」は関係する用語を修正した。
[6]第2次世界大戦後、台湾はカイロ宣言などに根拠して、中国の一部として国民党軍に接収され、国際法的に一つの中国論が承認されたが、台湾独立派などは、第2次世界大戦後、台湾の国際法的地位は未定であると主張している。(訳者注)
[7]日拠とは日本占拠時期のことで強制占領の意味を持ち、抗日戦争の主体であったことをアイデンティティとする国民党の立場からの用語であり、日治とは日本統治時期のことで、日本の台湾植民地支配を肯定的に評価する民進党の立場から、国民党の用語である日拠を否定する意味で使われる。(訳者注)
[8]「海洋教育と教科書用語検討計画」に次のように指摘している。「客観的でない歴史の価値判断、意図的に高く評価したり、貶めたりする価値中立性の無い言語は必ず修正しなければならない」戴寶村主持,「海洋教育與教科書用詞檢核計畫」、「第二部:不適合用詞檢核」台北:台湾歷史學會,2007,頁2参照。
[9]「海洋教育と教科書用語検討計画」に次のように指摘している。「日治時期台湾の人、事件、事物などを大清帝国と中華民国の年号を使用して叙述することは必ず、修正されねばならない」戴寶村主持「海洋教育與教科書用詞檢核計畫」、「第二部:不適合用詞檢核」頁2参照。日治/日拠は最近、台湾歴史教育論争の主要な争点の一つである。
[10]台湾大学哲学系名誉教授である王曉波が、昨年8月の「日拠か日治か?」という日本の植民地支配に関する座談会で蒋介石の暴虐に対する批判をする中で「蒋介石は大陸で40万人を粛清した。それに比べれば、2.28事件での2万人虐殺はsmall caseだ」と発言したことに対して、2.28事件を縮小しようとしたのではなく、蒋介名の本来の暴辱性を強調しようとした王教授の意図を全く歪曲した独立派が、激しい批判を浴びせた事件。(訳者注)
[11]中国と台湾の統一を主張する統一派と台湾独立派、あるいは統一論と独立論の対立状況を指す語。(訳者注)
[12]「党外」とは国民党が一党独裁を布き、政党の設立を許さなかった時期に、野党勢力は「党外(無所属)」として政治運動を行ったことを指す。(訳者注)
[13]独立派の学者は台湾の歴史をできるだけ中国大陸とは関係のない独自の歴史として叙述しようとするのに反して、統一派の学者は中国大陸との有機的な連関性の中で描こうとするところから、激しい対立が生まれる。(訳者注)
[14]例えば、「憲法」がどの程度まで歴史教科書を規制できるのか?誰が、歴史指導要綱が「憲法」に符合するかどうかを判断するのか?
[15]「国家/社会」の二元対立を通して、新しい「国家」を建設することは、一定程度、20世紀の中国民族主義建設過程の中の「社会作り」論と似ている。例えば、シュワルツの著作を翻訳した厳復は、自由な個人の競争を通じて一個の生命力ある有機体、中国社会の実現を望んだ(B.I.Schwartz,《尋求富強:嚴復與西方》)葉鳳美訳、南京、江蘇人民出版社、1990)。梁啓超は、伝統的社会は自然的で、現代国家は意識的に構築されるべきだと考えた。(王汎森『中国近代的思想と学術の系譜』p204)五四運動前後の傅斯年は、中国は新しい「社会」を創造して、完全に不能に陥った「政治」に対抗しなければならないと考えた。(王汎森,〈傅斯年早期的「造社會」論:從兩份未刊殘稿談起〉,《中國文化》第14期、1996)またシュワルツはヨーロッパでアダム・スミスの時代には社会(society)、民族(nation)、国家(country)という単語が互換的だったと指摘した(B. I. Schwartz,《尋求富強:嚴復與西方》。その原因はちょうど汪暉が言うように、これらの概念はヨーロッパの自生的なものだ。しかし中国では、「社会」はかえって創造を待たねばならない。近代中国科学知識系譜の中心的「社会学」たるものは、別に既設の中国「社会」を研究対象とするものではなく、中国に原来存在しない「社会」を対象とするものであった。当時の中国知識人が実現しようとした目標、対象は近代的経済の実現を促進することであった。当時の知識人は正常なものは「社会」に入れ、非正常なものは「社会」の外部へ排除し、自分たちの科学的功利主義に適合するものだけを取り入れた。(汪暉,《現代中國思想的興起》,下卷第二部「科學話語共同體」。北京:生活讀書新知三聯書店,2008,第十五章「總論:公理世界觀及其自我瓦解」)─あるいは類似の意味において、近代中國民族主義論の叙述過程の特徴は「近代性」の所在と関連する。
[16]「脱国家化」教科書を主張する学者たちは、軽々に教科書の存在を否定するようなことは言わない。「教科書の存在は児童の学習への興味を引き起こすもの」なので、「社会の各階層が簡便な学習、参考の手段として比較的に負担し易いものである」。しかし、なぜ「簡便」で「興味を引き起こすこと」を教科書に期待するのか?「簡便」な材料がいかにして、学習の興味を引き起こすと保証できるのか?なぜ、ただ「簡便」なもので「興味を引き起こすこと」を教科書に期待できるのか?もし、徹底して、いかなる形式の教科書をも否定することができないなら、「脱国家」を前提とした「教科書批判」を保証することができず、別の種類の新しい「再国家化」した教科書しか作ることはできない。―このような「再国家化」は「社会」の名によって展開されている。
[17]本論文のコメンテーターであるキム・ハクチョン教授のご教示によれば、アメリカの社会科が採用している、「環境拡大法」(environmental expanding method)、「地域拡大法」(expanding district method)、及び「地平線拡大法」(horizontal expanding method)の影響の下に、韓国の小学校では、「市-郡と市-道と国家-国家と世界」の順序で叙述しており、中学では「アジアーヨーロッパ-その他の大陸」の序順を採っている。
[18]「民族形式」に関する論議は、汪暉〈地方形式、方言土語與抗日戰爭時期「民族形式」的論爭〉《亞洲視野:中國歷史的敘述》(香港:牛津大學出版社,2010)p237-281、邱士杰,〈陳映真與台湾的階級認同和民族認同〉,《台湾社會研究季刊》第93期(台北,2013)p245-259参照。
[19]ある意味において、「先に中国史を教え、次に台湾史、最後に世界史を教える」ことも可能である。実際上、これが「88指導要綱」及びそれ以前の歷史教科書のロジックである。したがって、当時の教科書は「台湾史」を清代と近現代中国史のなかで教えた。
[20]101指導要綱に依拠して編纂された、泰宇2012年版『普通高級中學歷史第一冊』が代表的である。
[21]「6.17」は日本の台湾植民統治が正式に始まった日で、日本当局はこの日を「始政紀念日」と呼んだが、台湾人たちは「恥政紀念日」と呼んだ。台湾光復後、この日は記念日でなくなったが、2013年、臺北市北投公園で形を変えた「6.17」記念式が行われた。
[22]以下の内容は筆者が多くの高等学校歴史教師を訪問し、彼らの口述内容を整理したものである。
[23]高等学校歴史教育で要求される水準が大学水準へ高められたことは、「95暫定指導要綱」実施期間に高等学校3学年を対象に「テーマ研究」選択授業が設けられてからだった。授業で扱われる「医療史」と「生活礼俗史」などの内容は「民間/最新/学術的」成果を反映したものではあったが、多くの高等学校歴史教師にはこの授業が大きな負担になった。さらに「試験のための教育」が行われる環境で、これは学生たちの負担になった。
[24]12年国民教育は次のような内容を含んでいる。(1)15歳以上に一括適用する。(2)自願入学の権利はあるが、強要されて入学する義務はない。(3)学費免除、(4)教育部から補助を受ける私立学校は、公立学校と同一の監督を受ける。(5)無試験入学中心。(6)学校類型の多元化、一般教育と職業教育の同時発展。
[25]2014年秋から「12年国民教育」が実施された。「12年国民教育」で高等学校まで国民教育に含まれるようになって、試験を通じて高等学校に進学していた、ほとんどの方式が変わらざるを得なかった。これで「いい高等学校」と「悪い高等学校」の差別も無くなるだろうと期待した。「12年国民教育」の理想は高等学校教科課程に対する教育部の干渉を減らし、必修科目の授業時間を減らすかわりに各高等学校が独自に定めた教材と教科課程の比重を拡大し、高等学校の「学群制」と「特色化」を図ろうとするところにある。これは究極的に「いい高等学校」と「悪い高等学校」の差別を無くす条件を作ろうということである。しかし、このような理想が実現されるには、現実的に問題が無くはない。(1)中学生たちの高等学校進学ルートが「多元化」されはしたが、「いい高等学校」(特に各地区の「1.2.3志願学校」)、また特定の入学ルート(例えば、いわゆる「特別選考」など)を通じて優秀な学生たちを選抜し「いい高等学校」の名声を継続維持する。(2)進学ルートの「多元化」で多くの高等学校が学習能力に従って班分け制(いわゆる「優越班」)を運営するようになり、このために「特別選考生」は、「一般選考生」に比べ、優越班に編成される可能性が高い。しかし過去数十年間、「優越班」制度の運営が最も急がれる教育改革の対象として指摘されてきたことを考えてみよ。(3)高等学校の「学群制」実施は事実上、「特色化」と矛盾する制度である。「学群制」は特定区域内の各種の学生たちを無差別的に受け入れることを意味するのに、こうなれば、学生たちの学習水準が不均衡になる。
[26]今は旧指導要綱に代って、新指導要綱が全面的に普及している時期である。2013年は広西省だけが旧教育指導要綱に基づいた高校入試を実施している。
[27]本文は人民敎育出版社版本を参考した。
[28]本文は人民敎育出版社版本を参考した。
[29]紙幅の関係上、本文では目下、中国大陸の「歴史修正主義」問題に対して一歩進んだ説明は省略する。東アジアの他の地区とは異なり、中国大陸の「歴史修正主義」は革命歴史経験を批判の対象としている。これは異なる地区では、ほとんど見ることのできない現象である。最近、最も有名な「歴史修正主義」論争は自由主義派の学者である袁偉時が、2006年、中国共産主義青年団の機関紙『中国青年報』の『氷点週刊』に「現代化與歷史敎科書」という文を発表して始まった。その文章は新中国の革命歴史教育は「狼の乳」で育てる教育(独裁の美化、民族主義、階級闘争史観の注入)」であると論じる。この文章が出ると『氷点週刊』は停刊された。後に台湾の作家である龍応台が袁偉時を支持する文を表し、論争は「文明」と「野蛮」の次元にまで拡大し、共産党政権を野蛮な政権だと批判した。
[30]少なからぬ教師が直接編纂した教材を活用した教学を進めることを望むが、このような方式は危険であると考える教師も少なくない。後者に属する教師はその時その時に必要な講義録を準備して授業するが、試験に臨む高3学生たちの中に、その間、配布された講義録をちゃんと保管しておく場合が多くないので、実際の助けにならないことを恐れて教科書中心の教学を進めるしかない立場である。
[31]歴史教師の間の世代と素質の違いは、次の幾つかの差異が入れ混った結果である。1教師養成の過程は師範体系か「教育プログラム」からくるのか。2歴史学部卒業生か、その他学部の卒業生なのか、3学部卒業なのか修士、博士学位取得者なのか、4歴史教育改革の後に学んだのか。
[32]族群主義は台湾を大陸から来た外省人と福建省から来た閔南人、客家、原住民からなる多族(malty ethnicity)社会とみる考え方であり、公民民族主義は市民中心の国民国家論的な見方。(訳者注)
[33]西嶋定生、『中国古代国家と東アジア世界』(東京:東京大学出版会、1983)。
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