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「蠹魚」的旅行日記:1924年連溫卿的赴日之行


《一九二四年以前台灣社會主義運動的萌芽》
第八章


「蠹魚」的旅行日記
──1924年連溫卿的赴日之行


引 言、一次特別的報告會
第一節、〈蠹魚的旅行日記〉尋蹤
  1.戴國煇的追尋
  2.〈蠹魚的旅行日記〉考證
  3.「蠹魚」為何得以成行
第二節、向著五一節的東京而去的蠹魚
  1.在前往日本的船上(4月26日至30日)
  2.從神戶到東京(4月30日)
  3.參與東京的五一節遊行(5月1日)
第三節、為了與山川夫婦的見面
  1.在東京展開訪問行程(5月2日至4日)
  2.為日本世界語學會而續留於東京(5月5日至14日)
  3.訪問山川夫婦與返台(5月14日至20日)
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引 言、一次特別的報告會

雖然有1923年底「治警事件」的打擊以及許多組織的接連崩潰,文化協會卻堅持了下來。文協繼續進行著面向群眾的文化啟蒙工作。特別在台北,1923年以來開設了「短期講習會」[1]以及「通俗學術土曜講座」[2]。前者後來遭到禁止,[3]後者則在台北「港町」進行至1924年。蔣渭水(1890-1931)是「通俗學術土曜講座」講次最多的人,共九次;其次則是講了八次的連溫卿(1895-1957),[4]其間還曾遭到臨監警官的中止。[5]連溫卿指出,就動員力來看,「每回聽眾平均以五百名計算,已動員二萬二千人。」若就演講主題來看,則「以社會問題方面之講演為最多,幾乎及半,佔三十次之多,以民族問題,勞動問題及文學方面最少,祇各一次而已。」[6]

連溫卿的八次演講有一次是非學術的,即1924年5月30日臨時舉行的第廿七回講演──「內地旅行談」,這是他赴日本旅行的心得報告會。連溫卿於1924年4月底至5月中旬首次踏上日本進行考察訪問。這是連溫卿第一次離開台灣的土地、為了追尋與殖民母國社會主義運動的聯繫而展開的一場旅行。

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邱士杰|『戦後台湾経済分析』を読み直す――「新世代アジア史研究会」における発表(訳文)

2022年6月18日,新世代アジア史研究会

邱士杰[1]

初めて劉進慶先生に会ったのが2002年7月であった。その後、ずっと台湾の社会運動に従事しながら、林書揚先生、陳明忠先生、及び作家・陳映真先生といった社会運動家の指導の下で学んできたから、彼らがよく知っていた劉進慶先生と会って同氏の著作を読むようになった。2004年、陳映真先生は、劉先生が台湾に帰って定住した後、同氏の原稿の整理を手伝ってあげたらどうかと私に提案した。しかし、2005年、劉先生が突然に辞世した。2015年、長期にわたって旅日華僑左翼運動に従事した林啓洋(別名王啓洋)先生から、『劉進慶文選』の編集の委託をいただいた。それをきっかけに、劉先生の原稿を整理する機会をいただき、同氏の「レジスタンス」も「学問」もある人生を認識し始めた。「レジスタンス」とは、劉先生は民主主義を追求したり威圧に反抗したりして、華僑左翼運動に従事したことを指す。「学問」とは、自らの「レジスタンス」を支えるために発展してきた戦後台湾経済論を指す。

この写真は2002年に撮影されました。写真の左から第一列の一番目の方は林書揚先生です。筆者は劉進慶教授の後ろにいます。
筆者と林書揚先生、劉進慶先生との写真(2002年)

今日の報告は、「劉進慶のレジスタンス」、「劉進慶の学問」、「『戦後台湾経済分析』への反省とその発展」と3つの部分に分けられる。

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