2022年6月18日,新世代アジア史研究会
邱士杰[1]
初めて劉進慶先生に会ったのが2002年7月であった。その後、ずっと台湾の社会運動に従事しながら、林書揚先生、陳明忠先生、及び作家・陳映真先生といった社会運動家の指導の下で学んできたから、彼らがよく知っていた劉進慶先生と会って同氏の著作を読むようになった。2004年、陳映真先生は、劉先生が台湾に帰って定住した後、同氏の原稿の整理を手伝ってあげたらどうかと私に提案した。しかし、2005年、劉先生が突然に辞世した。2015年、長期にわたって旅日華僑左翼運動に従事した林啓洋(別名王啓洋)先生から、『劉進慶文選』の編集の委託をいただいた。それをきっかけに、劉先生の原稿を整理する機会をいただき、同氏の「レジスタンス」も「学問」もある人生を認識し始めた。「レジスタンス」とは、劉先生は民主主義を追求したり威圧に反抗したりして、華僑左翼運動に従事したことを指す。「学問」とは、自らの「レジスタンス」を支えるために発展してきた戦後台湾経済論を指す。

今日の報告は、「劉進慶のレジスタンス」、「劉進慶の学問」、「『戦後台湾経済分析』への反省とその発展」と3つの部分に分けられる。
一、劉進慶のレジスタンス
『劉進慶文選』の編集を委託してくださった林啓洋先生は、劉先生とともに長期にわたって華僑左翼運動を従事した。台湾・霧峰の林家の直系の子孫でもある。林啓洋、劉進慶などの在日台湾若者は1970年代中期、秘密に「中国統一促進会」(「台湾解放革命党」と名付ける予定であった)[2]を創立し、左翼の在日華僑組織(例えば、「台湾省民会」、「東京華僑総会」)と連絡を取った。それのみならず、劉先生は、陳明忠をはじめとする台湾の左翼政治犯とは生死を共にするほどの友情を結んだ。日本と台湾の当局は劉先生などの活動を監視(日本の警察は長期にわたって劉進慶と定期的に面談)・鎮圧(林啓洋が日本当局に「強制収容」され、陳明忠が台湾当局に秘密逮捕された)していたが、これはかえって劉進慶とその仲間との友情を固めた。これは、林啓洋ががんの末期において『劉進慶文選』の編集を人生の最後の仕事とした理由である。
林啓洋は、東京にある劉進慶の家から大量の原稿を持ち帰った。そのおかげで、私ははじめて社会運動と経済研究に関して劉進慶が残してきた一次資料に出会った。これらは『劉進慶文選』の基礎となっている。劉進慶に関する一次資料への2回目の出会いは2019年であった。その時、黄英哲先生の支援で、『戦後台湾経済の左翼分析:劉進慶思想評伝』[3]を書くことにした。そのため、東京にある劉進慶の家を訪ね、東京大学図書館へ資料収集に行った──
- (一)劉先生の家族は、林啓洋が台湾に持ち帰らない劉進慶のノート、計26冊を提供した。その中、劉進慶が1960年代、東京大学経済学科在学期間の講義ノート、及び台湾経済に関する史料の読書ノートがある。劉進慶はノートを取る時、いつも日付を注記したので、1964-1969年間の受講記録と思考の過程は、日単位のスケジュールで示すことができる。
- (二)東京大学には劉進慶の修士論文と博士論文の原稿がある。博士論文の原稿は、その後出版された『戦後台湾経済分析』の母体として、出版の時に削除された第1章を含んでいるから、特別な理論的な価値がある。
- (三)二つの代表的な劉進慶自伝を手がかりに、劉先生が「レジスタンス」に身を投げる経歴を述べた上、私が発見した新しい資料を追加する。この二つの自伝はそれぞれ、劉先生が自ら書いた「わがレジスタンスと学問」、及び劉先生への取材「『戦後』なき東アジア・台湾に生きて」(作者:駒込武)である。[4]
劉進慶の「レジスタンス」人生を理解するには、この2つの自伝は信頼度が高くて内容が豊富な一次資料である。この資料は、現在、台湾の「主流」な歴史論説の以外に、同じながらもずいぶん異なった証言を提供している。地主・商人の家庭で生まれた劉進慶は植民地時代、豊かな生活を送っていた。一方、劉家内部では、漢民族のライフスタイルを続けて、字が読めない母と交流するために閩南語を使っていた。父親が家庭内で黙々と行った民族教育は、劉進慶が皇民化運動を乗り越える感情的な基礎となっていた。劉進慶は植民者と被植民者からなった「二重社会」の厳しさもよりいっそうわかった。1945年、劉進慶は台湾光復を喜んで迎えたが、光復後の一連の事件は同氏に予想できない打撃を与えた。まずは1947年の「二二八惨案」であった。これは同氏の一生の怒りを引き起こす「原体験」となった。次は、国民党が1950年代に実施した農地改革であった。そのため、大地主としての劉家は落ちぶれた。農地改革までの経歴は、その後台湾独立運動に従事した同世代者の共通な「証言」であったが、劉進慶はそれに反して中国統一運動に投身した。それのみならず、同氏は前向きな姿で農地改革の必要性を認め、戦後の台湾で「対日協力者」が処断されなかったことについても深く反省した。(実は、劉進慶個人の証言は同世代の台湾左翼知識者の共通な考えである。これについて、林書揚、陳明忠、戴国煇などの著作をご参照)。劉進慶の言葉で言えば、個人の体験が同じでも政治的立場が違うのは、同世代の台湾人の中でよく見られた「同根異果」という現象である。これは劉進慶が上記の2つの自伝に残しておいた貴重な「証言」である。
二、劉進慶の「学問」
劉進慶の「学問」生涯を理解するには、この26冊のノート及び博士論文の原稿がよりいっそう重要となる。私にとって、劉進慶のノートが20世紀における日本のマルクス経済学を理解するカギであり、劉進慶による1960年代における東京大学経済学科教育現場へのスケッチでもある。山田盛太郎、大塚久雄、隅谷三喜男をはじめとする「講座派」の伝統は、劉進慶が直接に継承したものである。一方、宇野弘蔵と大内力が批判的に継承した「労農派」の伝統は、劉進慶の知識体系の一部分となっている。「講座派」と「労農派」は対立する2つの流れだとされているが、劉進慶は戦後の台湾経済を分析する中で、両者の共通点を発見した。
「講座派」は、明治維新後、日本経済が様々な前資本主義の残りで一国の範囲内において均質で資本主義化を実現できないこと(日本は敗戦前、資本主義と半封建が併存し、敗戦後、「二重構造」があった)に気づいた。そのため、「講座派」は、「良き資本主義」を社会変革の段階的な目標と設定して、変革後の日本経済が統一的な資本主義原理に支配され、次の段階の社会変革のために準備しておくことを期待した。「講座派」の代表的な論者は山田盛太郎である。同氏が書いた『日本資本主義分析』は、『戦後台湾経済分析』へ基本的な「分析」の枠組みを提供している。
労農派は、明治維新後、日本経済が既に資本主義の段階に入っていると考え、資本主義原理そのものへの研究をより一層重視した。宇野弘蔵が「資本論」の体系を純粋化するために「原理論」の次元で提示した「純粋資本主義」という概念は労農派の代表的な成果の一つである。「純粋資本主義」は、マックス・ヴェーバーの「理念型」(ideal type)に近い抽象だが、劉進慶にとって、「純粋資本主義」こそ「良き資本主義」なので、戦後の台湾経済を評価するための隠れた基準となった。言い換えれば、同氏は戦後の台湾経済に対する批判的態度をもって、日本の学界でも重視されるとは限らない「講座派」と「労農派」との共通点を発見した。
日本のマルクス経済学から継承した劉進慶の理論的視野と分析方法は、『戦後台湾経済分析』の真意について台湾読者は理解できないところである。(1)台湾の読者は、『戦後台湾経済分析』が戦後の台湾経済を批判し、国民党の専制政治を非難する本だと知っているが、劉進慶がこの本で利用した方法に気づいた人がほとんどない。(2)また、台湾で出版された中国語繁体字版は、劉進慶が使った専門用語及び理論に関する表現への翻訳は不足がある。そのため、台湾の読者は中国語繁体字版を読んでその本の真意を理解することが客観的にできない。(3)もっと重要なのは、正式出版された『戦後台湾経済分析』は、紙幅を節約するために、原稿の第1章、及びこの本で第1章に関する内容を削除した。第1章は、マルクス経済学の特色が最も強いのみならず、この本で利用された基本的枠組みを説明している。そのため、原稿の第1章の削除によって、読者は劉進慶の研究方法と説明方法を理解できないことになる。これは確かに残念である。
でも、劉進慶はマルクス経済学者なのか。劉進慶はそう自称することはなかった。実は、ほとんどの著作では近代経済学(中国では「西方経済学」)の計量・分析方法が使われている。一方、『戦後台湾経済分析』にはマルクス経済学の一つの特色が見える。この特色は次の仮説である。即ち、単一社会の歴史変遷はマルクスの「唯物史観公式」が掲示した段階性があり、歴史の発展段階ごとに当該段階の特徴を反映する経済本質がある。マルクスが指摘したように、「もし事物の現象形態と本質とが直接に一致するならばおよそ科学は余計なものであろう。」[5]言い換えれば、『戦後台湾経済分析』では、現在の台湾で使う可能性がほとんどないコンセプトを使った。例えば、「半封建性」、「植民地性」、「二重経済」、「絶対主義」(あるいは「家産制国家」)、「前期的資本」、「官僚資本」、「小農以下」など。これらはすべて前資本主義経済のことを指す専門用語である。[6]それと同時に、劉進慶が言ったように、往々に近代の同義語と考えられている「資本主義」という言葉は、この本ではほとんど使われていない。台湾経済の著しい成長が1960年代では明らかな事実であった。しかし、劉進慶はそのような経済成長(growth)が経済発展(development)に等しく、資本の存在が資本主義の存在に等しいとは思わなかったから、戦後台湾の経済現象と経済本質を区別してみようとした。一言でいうと、『戦後台湾経済分析』の主旨は、戦後20年間、台湾経済は国民党政権の統治で本質的に強い「前期性」があったことを論証することである。その判断の裏には、国民党政権に対する劉進慶の非難がある。
在日華人学者・游仲勲は、台湾の読者のことを考えて『戦後台湾経済分析』ではわざと中国のマルクス経済学者の研究成果が使われていないこと指摘した。許滌新の「官僚資本論」だけ引用したが、王亜南などの有名な理論家の著作を引用しなかった。[7]しかし、劉進慶は中国の研究成果を避けたわけでなく、選択的に「適切な」論点(例えば、国民党のマルクス主義者・陶希聖の論点)を探し、かつ中日両国のそれぞれのマルクス経済学の中で共通点を求めた。
- (一)1つ目の共通点は「国家装置」(state apparatus)を含んだ上部構造への重視である。「講座派」は、明治維新後、創立した「絶対主義」の天皇制国家は資本のための道を開いたと主張し、中国のマルクス主義者は1945-1949年間、はじめて国民党政権と官僚資本との結合を指摘した。劉進慶は次のことを発見した。即ち、中日両国の歴史背景はずいぶん異なったが、絶対主義論と官僚資本論はともに資本と前資本主義的な国家装置との結合を強調し、マックス・ヴェーバーが言った「家産官僚制」にも内容が類似した意味がある。それで、『戦後台湾経済分析』(特に原稿)では、「絶対主義」、「官僚資本」、及び「家産官僚制」は同時に戦後の国民党政権を指している。
- (二)2つ目の共通点は「半封建性」への重視である。「封建制」を「伝統経済ならではの前期性」と定義したら、「半封建性」は近代資本主義の影響で自ら変化・保留してきた「封建性」である。中日両国のマルクス主義者は、「半封建性」を用いて歴史の特定発展段階における自国の経済本質を指した。但し、「講座派」は「封建性→半封建性」の変化動力が日本そのもの、特に明治維新後、創立した絶対主義国家と自国の資本主義から生じたと主張した。中国のマルクス主義者は、「封建性→半封建性」の変化動力が外部、特に外国資本主義及び土著社会に無理に押し付けた植民地性から生じたと主張した。『戦後台湾経済分析』は上記の2つの論点を兼備している。
- (三)3つ目の共通点は「前期的資本」への重視である。マルクスは資本主義の道が2つあると指摘した。一つは「生産者が商人や資本家になる」道であり、この道こそ資本主義の起源につながる。もう一つは「商人が直接に生産をわがものにする」道であり、この道は常に資本主義の生産を脅かす。[8]2つ目の道は、「資本」が必ずしも「資本主義」につながるとは限らないことを意味している。そういう論点は日本人・大塚久雄と中国人・陶希聖にインスピレーションを与えた。二人はともに、商人資本を代表とする「資本の大洪水以前的形態」[9](大塚久雄が言った「前期的資本」、王亜南が言った「原始性資本」)が往々に資本主義の生産の発展を推進するどころか、前資本主義社会の構造を強化すると主張した。劉進慶は、特に大塚と陶の論点を利用した上、戦後の台湾経済内部の各種の資本は多かれ少なかれ「前期的資本」の特性があると主張した。
作家・陳映真は、「劉進慶教授は『新植民地・半封建社会』で1945-1965年間の台湾社会の性質を定めた第一人者」と言った。[10]劉進慶は晩年、よく「新植民地」という言葉で戦後の台湾を指したが、「新植民地」が『戦後台湾経済分析』に現れた頻度が実は非常に低い。正確に言えば、この本ではより頻繁に使われたコンセプトが「植民地性」(及び「植民地的」)である。でも、どのように「植民地性」を理解したらいいなのか。「戦後台湾経済分析」て定義された「植民地性」は「植民地」と「半植民地」と「新植民地」からまとめた共通な特性である。オランダ人学者・Boekeの「二重経済論」により、ある地域の経済は外来性(例えば、資本主義)と土著性(例えば、半封建性)が長期的に併存すると、この二重経済は「植民地性」が見える。劉進慶が削除した『戦後台湾経済分析』の原稿の第1章はこれを詳しく説明した。そこで、「植民地性」というコンセプトは実は、完全な主権を持っていながら実際に二重経済が存在する国に応用できる。
劉進慶は「『戦後』なき東アジア・台湾に生きて」についての取材で次のことを述べた。即ち、劉進慶は国民党の外来性とそれに伴う差別政策で、素朴な憎しみに基づいて「植民地性」というような強いコンセプトを用いて国民党の台湾支配を批判するしかなかった。同氏は、国民党が同じ民族の台湾人に「植民地性」をもたらしてくるべきではないと思っていたが、国民党はそれを避けることができなかった。一方、この差別政策が「植民地性」ではなく、国民党の「封建軍閥体質」から生じたかもしれず、国民党そのものが植民地として支配を受けていると劉進慶が考えた。[11]言い換えれば、もっと大きな外来性が国民党に影響を及ぼしている。これは劉進慶の仲間(例えば、陳映真、林書揚)が「植民地性」をもっと重視する理由である。
「植民地性」に対する劉進慶の多重な理解は現在、1960年代の在日台湾人政治運動を改めて認識するカギとなっている。1960年代、在日台湾人の内部に、「左統/左独/右統/右独」という思想の分化が現れた。でも、思想の分化と政治の対立がより深刻な1970年代と比べて、1960年代、「左右統独共闘」の空間があった。社会運動の分野では、劉進慶が東京大学在学期間、何度も台湾政治犯救援運動(劉佳欽、顔尹謨、陳中統、陳玉璽などを救援)を組織したことからその「左右統独共闘」が分かった。理論分野では、政治的見解が異なった者が利用する理論はある程度の類似性があることからその「左右統独共闘」が分かった。例えば、史明、王育徳をはじめとする独立派は戦後の台湾が依然として植民地だと主張し、劉進慶も類似したことを主張した。しかし、「左統/左独/右統/右独」の分化・対立が深刻になるにつれて、どのように台湾の植民地性を解釈するのか、厳しい課題となった。史明と王育徳は、国民党の支配を植民地性の根源と見なし、この「植民地の圧迫」は台湾地元の住民が「台湾民族」に転換することにつながると主張した。一方、劉進慶は、米国と日本が国民党政権を介して支配することは植民地性の根本的な源だと思った。また、「台湾民族」のような共同体が現れるとは思わなかった。
三、『戦後台湾経済分析』への反省とその発展――商人資本性格論と台湾本土ブルジョアジーの系譜
『戦後台湾経済分析』で提示した「植民地性」と「半封建性」は実際に、台湾の左翼運動者が戦後の台湾経済を分析する上での共通認識である。[12]劉進慶独自の考えではない。1980年代、台湾が代表的な「NIEs」(新興工業経済地域)のひとつとなってはじめて、劉進慶は台湾の資本主義化を認めた。その時、劉進慶はやはり経済現象と経済本質を区別してみようとしたが、「資本主義も様々なタイプがある」という視点から、自分の理論を構築し直した。
- (一)同氏は「半封建性」の適用期間を戦後の20年間に厳しく制限した。この期間は「開発独裁」と異なる「収奪独裁」という段階である。
- (二)同氏は、国際資本主義支配下の戦後台湾の特別な状況を説明する場合、「植民地性」より「新植民地」を使うほうが多かった。
- (三)同氏は、NIEsで広く見られた高度成長を「原蓄」(資本の本源的蓄積)の過程と見なした。
- (四)同氏は次のことを主張した。即ち、台湾の半封建社会は「収奪独裁」と「原蓄」を経て資本主義社会に転換したが、台湾の資本主義が純粋な資本主義ではなく、特別なタイプとなっている。この台湾型資本主義の特別性が台湾型資本主義に浸透した「商人資本性格」、即ち資本に残ってきた前期性だと劉進慶が考えた。

劉進慶『戦後台湾経済分析』の原稿でまとめられた中国式「商人資本」の運動諸公式
商人資本性格論は実は劉進慶個人の論点ではなく、隅谷三喜男と凃照彦が共有した考えである。この二人が1990年代に共著した『台湾の経済』でまとめた商人資本性格は次の通り:地下金融と投機が盛んだ、R&Dの意欲と能力が弱い、家族企業が普遍化した、労働者が労働力を売る態度が労働者階級より商人に似ている、など。今から見れば、商人資本性格論が気づいた問題は、「経済社会学」が関心を持つ課題だ(中央研究院社会学研究所の研究成果をご参照[13])。劉進慶の論点は、経済社会学の分野で対話と推進を持続的に進める可能性があるだろう。
商人資本性格論から理想社会に対する劉進慶の期待がわかった。同氏にとって、台湾の理想社会は少なくとも商人資本性格を超克して、合理的で純粋な「良き資本主義社会」にならないといけない。台湾はそのような社会ではなかったが、「勤勉な台湾労働大衆」が永遠に社会の進歩を推し進める主力である。それで、同氏は特に台湾の異なる歴史の発展段階で経済の進歩を推し進める本土の経営主体への研究に力を入れた。即ち、(1)清代の「小租戸」と清代末期の「豪族資本」;(2)日本植民地時代では、日本の資本と対立した台湾人の「土著資本」;(3)戦後では、国家資本(公営企業)と対立した「民間資本」、特にその中の中小企業。劉進慶は、台湾経済史の進歩の主線を明らかにしてみようとした。この進歩の主線に沿って、世々代々の経営主体が相次いで現れ、資本主義の活力も強くなってきた。これらの経営主体は、台湾の歴史で積み重ねた様々な二元性(二重経済、二重構造、二重社会)に縛られながら、二元性にチャレンジする中堅となっている。この進歩の主線を「台湾本土ブルジョアジー」の系譜と言ってもいいだろう。このような意味において、マルクス主義の影響を強く受けた劉進慶は、「二段階革命論」のコミンテルンの理論伝統を明らかに受け継いでおり、ブルジョア民主主義革命=市民社会の完遂を前提とした社会主義者である。
同氏による「台湾本土ブルジョアジー」の系譜への考察は「小農」問題から検討してもいい。『戦後台湾経済分析』は『日本資本主義分析』の方法を用いて、農地改革後の台湾農民が「小農以下」の「零細農民」だと指摘した。「小農」とは、独立かつ自由な自営農民である。言い換えれば、大塚久雄がイギリスの「ヨーマン」(Yeoman)をはじめに提示した「中産的生産者」である。「中産的生産者」は資本主義を発展させる中堅であり、民主主義を追求する主力でもある。[14]そのため、「小農以下」は、「零細農民」が資本主義を発展させる主体とはなれないと意味している。劉進慶は、戦後の台湾で「小農」を見つけられなかったが、民間資本、特にその中の「中小企業」を見つけた。中小企業は、戦後台湾の「中産的生産者」であった。中小企業は商人資本性格がついていながらも、台湾経済内部で最も資本主義的な活力と強靭性を持つ経営主体(低効率の公営企業と比べた場合)であり、民間資本は独占段階に入っても中小企業の特性が消えにくいと劉進慶が考えた。[15]
総じていえば、劉進慶は台湾の歴史の中で自主独立で進歩な経営主体を探すことに努力していた。このような思考は、独立の「個人」の成立を証明しようとした「近代主義者」(例えば、大塚久雄、丸山真男)または「市民社会マルクス主義者」(例えば、平田清明[16])に近かった。だから、劉進慶は未来の社会主義を、現実を批判する準拠としなかった。そこから、劉進慶に対する戦後日本の思想のプラスな影響とマイナスな制限が分かった。
「客観的分析における客観主義の拒絶、経済的分析における経済主義の峻拒」──これは『日本資本主義分析』に対する毛利健三の評価である。[17]この評価は『戦後台湾経済分析』にも適用する。劉進慶は、「奴隷の言葉」で戦後の台湾経済を評価しないことを期待していたので、[18]この著作は「強烈な陽性的主体性」(凃照彦の評価)に溢れた。[19]それのみならず、劉進慶は各種の「ポリティカル・コレクトネス」を乗り越えて自らの判断の形成に努力した。例えば、『戦後台湾経済分析』の原稿は、台湾は日本の植民地統治末期における新興中小工業によって資本主義工業化の基礎が構築されたことを明らかにしたが、日本の支配前の清代の台湾では同時代の日本とは劣らない商品経済があったと指摘した。[20]劉進慶の基本的な立場は、日本の植民地支配と国民党の統治への美化を拒否することだが、以上の判断は同氏の基本的な立場と一致しているかという質問を出す読者がたぶん多いだろう。
「ポリティカル・コレクトネス」が異なる読者にとって、劉進慶がこの本で述べた各種の判断にはきっと「ポリティカル・インコレクトネス」のことがあるので、各種の判断の間に衝突がある。でも、これらの衝突しあいそうな判断は、戦後20年間の台湾経済に対する最も全面的なスケッチである。そのおかげで、この「ポリティカル・インコレクトネス」の著作は台湾の各種の政治勢力に利用されない。この意味では、現在の台湾経済史の研究は豊かな成果を収めたが、劉進慶が「奴隷の言葉」を拒否する態度は依然として研究者の参考となれる。
最後、今度のフォーラムを主催する新世代アジア史研究会、駒込武先生、三澤真美恵先生、コメンテーター佐藤幸人先生、及び『劉進慶思想評伝』を書くことについて励ましてくださった黄英哲先生に対し、感謝申し上げます。これで以上です。ご清聴ありがとうございました。
[1] 厦門大学歴史系。
[2] 林啓洋によると、これは中国と社会主義にまったく賛同する団体であったから、「牛馬社」との名義で出版した機関誌『洪流』も北京の『紅旗』を真似ていた。ところが、絓秀実の書いた『1968』(筑摩書房 2006)という本によると、「華青闘」(華僑青年闘争委員会)が「海燕社」の名義で『底流』という機関誌を出版したことがわかった。類似な社団名や雑誌名は、華青闘を代表とした日本マイノリティ左翼運動の歴史の中で劉進慶などが組織した華僑左翼組織を考察してもよいと思わせた。
[3] 邱士杰『戰後台灣經濟的左翼分析:劉進慶思想評傳』台灣大學出版中心 2022。
[4] 劉進慶「わがレジスタンスと学問」『東京経大学会誌』233(2003),13-24。劉進慶、駒込武「追悼特別掲載:「戦後」なき東アジア.台湾に生きて」『前夜』1(2006),229-246。
[5] K. マルクス「資本論・巻三」『マルクス=エンゲルス全集』25-2 岡崎次郎訳 大月書店 1967,1047。
[6] 劉進慶が自ら創ったその他の専門用語もほとんど前期性を指す。例えば、公業、私業、官商資本。
[7] 游仲勲「劉進慶著『戦後台湾経済分析』」『アジア研究』22-3(1975),87。
[8] K.マルクス「資本論・卷三」『マルクス=エンゲルス全集』25-1 岡崎次郎訳 大月書店 1966,417。
[9] K.マルクス「資本論・卷三」『マルクス=エンゲルス全集』25-2,766。
[10] 陳映真「東望雲天:紀念劉進慶教授」『聯合報』(台北),2005年11月20日,E7版。台湾の左翼中国統一論者(例えば、林書揚、陳映真)は「新植民地」で戦後の台湾社会を定義するべきだと主張した。
[11] 劉進慶:「私が『植民地的』という言葉を遣ったのは、両方とも外来のパワーだということです。蒋介石も外来的、日本も外来的、この点では非常に似ている。こういう複雑な仕組みをきれいに整理することは、ちょっと心情的にはできません。それは素直な感情だと思います。」『植民地的』という言葉を遣いたかったのは、外来ということなんですね。同じ民族であるけれど、かえって近親憎悪が直らない。この憎しみはもっと深い。」「台湾社会の人たちは、国民党にも『植民地』支配を受けたと理論づけている。そのほうが庶民も感情的にわかりやすい。」「その差別は、『植民地』だからなのか、それとも中华民国の封建的軍閥的な体質によるものなのか。」劉進慶、駒込武「追悼特別掲載:「戦後」なき東アジア.台湾に生きて」『前夜』1(2006),239-241。
[12] 下記の文献(略)をご参照。
[13] 李宗榮、林宗弘編『未竟的奇跡:轉型中的台灣經濟與社會』中研院社會所 2017。
[14] 大塚久雄「株式會社發生史論」『大塚久雄著作集』1 岩波書店 1969,1-522。
[15] 劉進慶「台湾の中小企業問題と国際分業—その華商資本的性格に関する一考察」『アジア経済』30-12(1989),38-65。劉進慶は忠実な中国民族主義者であったが、経営主体は資本主義的活力があるかどうかを分析基準としていた。それで、同氏はほとんど台湾に「民族経済」または「民族ブルジョアジー」(中国民族主義あるいは「台湾民族主義」を問わない)があるかどうを検討しなかった。それに対して、同じように講座派、特に大塚史学の影響を受けた韓国のマルクス経済学者・朴玄埰は、民族主義の意志がある経営主体を探した上、近代韓国の「民族経済」発展史を構築しようとした。박현채(朴玄埰)『민족경제론의 기초이론〔民族経済の基礎理論〕』서출판돌베개 1989,74-75。劉進慶は辞世数年前から、民族経済と民族ブルジョアジーのことを検討するようになったが、台湾で中国民族主義に基づいた民族経済と民族ブルジョアジーが生じられるかどうかという問題から検討した。劉進慶「當前台灣的經濟困境與勞動處境及其未來出路」(2001年),邱士杰主編『劉進慶文選』上 人間出版社 2015,285、288。
[16] 『戦後台湾経済分析』ではわざと平田清明「範疇と日常語:市民社会と唯物史観」『思想』526(1968)を引用した。
[17] 毛利健三「ファシズム下における日本資本主義論争」,長幸男、住谷一彦編『近代日本経済思想史II』有斐閣 1971,155。
[18] 劉進慶「わがレジスタンスと学問」,18。
[19] 凃照彦「書評:劉進慶,『戦後台湾経済分析』— 一九四五年から一九六五年まで— 昭和50年2月 東京大学出版会刊,398ページ」『経済学論集』41-3(1975),83。
[20] 近年、台湾経済史研究は2つの考え方がある。一つは、戦後、救国理想に基づいた国民党経済官僚による戦後台湾経済への貢献を強調する。もう一つは、戦後台湾経済の発展が日本植民地支配時代における生産力の物質的基礎、土著資本の育成、及び経営知識などの基礎に基づいたものであるを強調する。劉進慶はまだ生きているなら、この2つの衝突を評価するのか。劉進慶が1987年に言った次のことをご参照ください。即ち、「経済成長の要因と言えば、どの時代でも、基本的に勤勉な台湾労働大衆のお陰である。当代の統治政権の腕前のお陰とすれば、日本支配時代の成長は日本帝国主義の植民地支配のお陰、清代末期の成長は腐敗の清政権または英帝国主義の支配のお陰ではないだろうか。大衆の立場からみれば、これは通じられない。」劉進慶「從歷史觀點探討台灣經濟成長問題」『台灣學術研究會誌』2(1987),94-95。
邱士杰|唯物史觀台灣史的可能性:試論劉進慶《戰後台灣經濟分析》原稿的台灣史論
DOI: 10.5281/zenodo.15449854 邱士杰(2021)。〈唯物史觀台灣史的可能性:試論劉…
汪力|劉進慶與「社會科學」的時代
劉進慶並未「順應時代潮流」地從「依附論」走向「世界體系論」,而是反而從「依附論」向內生性發展…
深串徹|[書評]邱士杰著:戰後台灣經濟的左翼分析──劉進慶思想評傳
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